第21話 卒業の讃美歌
春の陽光に包まれた王立学園の大講堂には、卒業生たちの希望に満ちた賛美歌が響き渡っていた。しかし、その華やかな門出の場に、学園の最高傑作と謳われた『太陽の女神』――ジークリット・プラタナスの姿はなかった。
「……フォルビア殿。ジークリット様は、やはり体調が優れないのですか?」
「特級探索者の志願も取り消されたと聞きましたが……あの噂は、本当だったのでしょうか」
式典が終わり、中庭で談笑の輪が広がる。その最中、フォルビアの周囲にはジークリットの安否を気遣う顔を装った生徒たちが群がっていた。彼らの瞳の奥にあるのは、純粋な心配ではない。『あの高慢な天才が、魔力を失って没落したというのは本当か』という、下世話な好奇心と優越感だ。
……本当に、鬱陶しい羽虫どもだ。
フォルビアは、内心で冷ややかに毒を吐き捨てた。以前の彼なら、ジークリットに群がる彼らに嫉妬し、怯えたふりをしてやり過ごすしかなかった。だが、今の彼にとって、目の前の男たちはもはや何の脅威でもない。なぜなら、彼らがどれだけ背伸びをして彼女の噂を嗅ぎ回ろうと、彼女の全てはすでに僕の腕の中にすっぽりと収まっているのだから。
「ええ、ご心配をおかけして申し訳ありません」
フォルビアは悲しげに眉を下げ、完璧な『献身的な婚約者』の仮面を被って微笑んだ。
「ジークは少し体調を崩してしまって……。ですので、プラタナス伯爵とも話し合い、予定を早めて結婚の手続きを済ませました。今はマクファーレン公爵家の奥で、僕の妻として静養しています」
結婚。妻。公爵家の奥。
その言葉が意味する『完全なる所有』の事実に学生たちが言葉を失うのを、フォルビアは極上の愉悦とともに眺めていた。
もう誰にも渡さない。彼女の没落を嘲笑うことも、彼女の美しさを讃えることも、今後一切、誰にも許しはしない。
「ジークのことは、僕が一生かけてお世話しますから。皆さんはどうぞ、ご自身の輝かしい未来へ羽ばたいてくださいね」
春の風が吹く中庭。
絶対的な勝者となった青年の穏やかな微笑みは、誰の目にも、ただひたすらに優しく、善良なものにしか見えなかった。
――同時刻。マクファーレン公爵家、別邸の最奥。
「ああああああっ!!」
ドサッ、とくぐもった音を立てて、分厚いビロードのクッションが壁に叩きつけられた。豪華絢爛に飾られた広大な寝室で、ジークリットは荒い息を吐きながら手当たり次第に物を投げ、暴れ回っていた。
「開けなさい!ここから出しなさい!!」
しかし、どれだけ彼女が暴れても、破壊の音は全く響かない。
無理もない。この部屋には、花瓶一つ、ガラスのコップ一つ置いていないのだ。家具の角という角は全て丸く削られ、柔らかなクッション材で覆われている。窓は絶対に割れない強化魔法ガラスで封じられ、飲み物を飲む器さえも、投げても割れない木製か純銀製のものだけ。彼女が自傷行為に走らないよう、あるいは武器として彼に反抗できないよう、病的なまでに『身の危険となるもの』が徹底的に排除された、完全無欠の鳥籠だった。
「はぁっ、はぁっ……っ!」
わずか数分暴れただけで、ジークリットは床に膝をつき、肩で息をした。左手の薬指にはめられた銀の指輪が、鈍く光る。この指輪のせいで、ただでさえ失われた魔力はおろか、体力さえもが普通の令嬢レベルにまで落ち込んでいるのだ。
「……うぅっ……ああ……っ!」
ふかふかの絨毯の上に崩れ落ちたジークリットの目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。それは、フォルビアに対する怒りや恐怖ではない。他ならぬ『自分自身の愚かさ』に対する、腸が煮えくり返るような激しい後悔と嫌悪感だった。
どうして……どうして私は、あんな男を信じてしまったの……!
諸悪の根源はフォルビアだ。奴が毒を盛り、この指輪をはめた。だが、その毒入りの紅茶を、疑いもせずに毎日飲み干したのは誰だ。魔力が衰え、不安で押し潰されそうになった時、奴の腕の中に縋り付き、その体温に安堵してしまったのは誰だ。他の誰でもない、私自身だ。
『馬鹿ね、フォルビア。……ほら、もう泣かないの』
『ええ。楽しみにしているわ』
保健室で彼の頭を撫でてしまった自分の手が。温室で彼に微笑みかけてしまった自分の顔が。
思い出されるたびに、吐き気がするほどの自己嫌悪となって彼女の心をズタズタに引き裂いていく。
私が甘えたから。私が油断したから。……天才だと驕り高ぶり、足元にいる狂気に気づけなかったから……!!
自分の手で、自分の未来の首を絞めていたのだ。
あの無害な仮面の下で、彼がどれほど暗くねっとりとした執着を煮詰めていたのか。自分が彼を利用しているつもりで、実際には彼の用意した真綿で首を絞められていたのだという事実が、ジークリットの気高いプライドを粉々に打ち砕いていた。
「いや……っ、嫌ぁっ……!」
絶対に傷つくことのない、ふかふかで安全な鳥籠の底。ジークリットは己の身体を抱きしめ、二度と戻らない輝かしい未来と、愚かだった自分自身を呪いながら、ただ絶望の涙を流し続けることしかできなかった。
つづく




