第20話 永遠の指輪
卒業を間近に控えた、ある日の温室。テーブルを挟んで向かい合う二人の間には、いつものように温かい紅茶と焼き菓子が並んでいた。だが、今日の茶葉には一滴の毒も混ぜていなかった。昨日、一昨日と与え続けたポーションの蓄積により、彼女の魔力回路がすでに『ただの普通の貴族令嬢』のレベルまで落ち切っていることを、彼は正確に把握していたからだ。
「ジーク。最近、体調はどう?」
ティーカップを置き、フォルビアは穏やかな声で問いかけた。
「……悪くないわ」
ジークリットは、嘘を隠すようにスッと視線を逸らした。不調などという生易しいものではない。己の身体から魔力が抜け落ち、指先に力が入らない恐怖を、彼女は必死に気丈な態度で隠し通そうとしていた。
「……本当に?」
ガシッ、と。
不意にテーブル越しに手を伸ばしてきたフォルビアに、左手首を掴まれた。いつもならば、彼が動いた瞬間に反応し、容易く躱せたはずの速度だった。それなのに、彼女の身体はピクリとも反応できず、なすがままに捕らえられてしまった。
「なっ……離しなさい!」
ジークリットは焦燥とともに腕を振って抵抗する。だが、無力だと見下していたはずの青年の細い腕はびくともしない。まるで鉄の万力に押さえつけられたように、彼女の手首は完全に固定されていた。
「っふ、ははは……!ようやく成功したんだ」
困惑し、目を見開くジークリットの前で。フォルビアは堪えきれない愉悦を顔いっぱいに溢れさせて、心底嬉しそうに笑い出した。いつもオドオドと彼女の顔色を窺っていた、あの無害な仮面が音を立てて崩れ落ちていく。
「あ、貴方!一体何を……!?」
「ジーク。君が僕のところへ落ちてくるのを、ずっと待っていたんだ」
フォルビアは目を細め、甘く囁きながら彼女の手首を強く引き寄せた。そして、抵抗できない彼女の掌に、自身の頬をすり寄せる。緑色の前髪の奥から彼女を見上げる紫の瞳は、熱に浮かされたように赤く染まり、狂おしいほどの愛執を孕んでいた。そのひどく生々しい体温と眼差しに、ジークリットは背筋を粟立たせる。
「やめなさい!!」
「抵抗しても、僕の腕を振り解けないんだね」
心底愛おしいものを見るような、甘く弾んだ声色。
「魔力の少ない僕に負けちゃうくらい、ジークはか弱い女の子になっちゃったんだよ」
「は……?」
「僕はね、弱体化の研究をしていたんだ。強くて眩しい君が弱くなって、僕だけのものになってくれたらって……。ずっと思っていたんだ」
弱くなる? 私が?
その言葉の意味を理解した途端、ジークリットは怒りに目を吊り上げた。
この男が、私から魔法を奪ったというのか。
「何をやっていたのかと思えば、馬鹿な研究ね!?さっさと直しなさい!!さもなくば……!」
「さもなくば?」
「私の魔法で……!」
「今の君に、できるの?」
言い返そうとした彼女の言葉を遮り、フォルビアはジークリットの指の間に自身の指をゆっくりと、ねっとりと絡ませていった。
「何一つ、抵抗できていないのに?」
「魔力が戻ったら、貴方なんて……!」
「うん、魔力が戻ったらね。……戻す気はないけど」
「……!」
絶句する彼女に、フォルビアは種明かしをするように優しく微笑みかけた。
「ジーク、君とのお茶会で用意した紅茶と焼き菓子は特別製でね。弱体化ポーションを入れてあるんだ。これは一時的な効果だけど……君には、これもプレゼントするよ」
絡めていた指を解き、彼はポケットから取り出した鈍く光る『銀の指輪』を、彼女の左手薬指へと滑り込ませた。ひやりとした金属の感触とともに、彼女の体内に残っていた微細な魔力さえもが、完全に沈黙する。
「この指輪はね、装着した者を弱体化させる能力があるんだ。外せないように『おまじない』をかけておいたから、外そうなんて思わないでね」
「ッ……!」
バシッ!
屈辱と怒りに駆られたジークリットは、空いた右手で思い切りフォルビアの頬を張った。しかし。本来なら成人男性を吹き飛ばすほどの威力があったはずの彼女の平手打ちは、今の弱り切った身体では彼の頬をほんの少し赤くする程度の、子供のじゃれ合いに等しい威力にしかならなかった。
「……ふふっ、あははっ」
頬を打たれたフォルビアは痛がるどころか、肩を震わせて心底可笑しそうに笑った。
「本当に、今の力を入れたの?ふふ、ジークは可愛いなあ」
「……この結婚は、白紙にしますわ……!」
怒りに全身を震わせ、ジークリットは声を張り上げた。
利用して切り捨てるはずだった未来。それをこんな男に奪われてたまるものか。
だが、その言葉を聞いた瞬間。フォルビアの表情からスッと笑みが消え、声のトーンは地を這うように低く落ちた。
「……へえ」
空気が、凍りつく。
「君に魔力がないと世間に知られたら、どうなるだろうね?羽虫どもは掌を返して、君の居場所は完全に無くなってしまうよ。……夢だった、冒険者にだってなれないね」
「……!」
図星を突かれ、ジークリットは息を呑んだ。
なぜ、この男が私の秘密の夢を知っているのか。
フォルビアは、彼女が冒険者になることを知っていた。彼女が冒険者になれば、その圧倒的な力とカリスマ性で多くの者を救い、世界中から称賛を浴びるだろう。そして、無能な自分の元へは二度と戻ってくることはない。それが、彼には耐えられなかった。彼女が自分を置いて、遠い空へ羽ばたいてしまうことが。
幼い頃、庭園で泣いていた自分に声をかけ、頭を撫でてくれたあの日。恋に落ちたあの日から、フォルビアにとってジークリットが世界の全てだったのだ。彼女の翼を折り、誰にも手の届かない場所に囲い込み、永遠に外せない枷を付けること。それこそが、無能な彼が人生を懸けて成し遂げたい、唯一の願いだった。
「ジーク、君はもう、僕と一緒にいるしかないんだよ」
天才としての誇りも、希望に満ちた未来も全て砕かれ、ジークリットはついに床へとへたり込んだ。フォルビアはそんな彼女を愛おしそうに、きつく抱きしめた。抵抗する力を持たない彼女の身体は、すっぽりと彼の腕の中に収まってしまう。
「愛してるよ、ジーク。ずっと、ずっと一緒にいようね」
夕暮れの温室。
永遠の枷を手に入れた男の甘い囁きが、絶望に染まる小鳥の耳元で、甘く、そして残酷に溶けていった。
つづく
これが!一番書きたかったシーンです!!
楽しかった〜




