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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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第19話 進路希望


 王都に吹き抜ける風が冷たさを増し、学園の木々が燃えるような赤や金に染まり始めた、三年生の秋。この時期の三年生たちの話題は、もっぱら『卒業後の進路』で持ちきりだった。


「……よし、と」


放課後の誰もいない図書室で、ジークリットは羽ペンを置き、手元の羊皮紙を満足げに見下ろした。学園に提出する進路希望調査票。そこには迷いのない、流麗な文字で『冒険者ギルドへの登録、および特級指定探索者への志願』と記されている。

 三年後の離婚に向けた実績作りには、特級指定を受けるのが一番手っ取り早いわ。春先のあの不調もすっかり鳴りを潜めているし、今の私の魔力なら余裕ね。

 ジークリットはふふ、と自信に満ちた笑みを零した。フォルビアとの結婚は、あくまでプラタナス家とマクファーレン家の結びつきを求める両家の顔を立てるための、一時的な隠れ蓑。妻という安全な立場を利用して冒険者としての地位を盤石にし、三年後に彼を切り捨てる。その完璧な計画に向け、彼女の視界は一点の曇りもなく晴れ渡っていた。


「あ、ジーク。こんなところにいたんだ」


 図書室の入り口から、ひょっこりと顔を出したのはフォルビアだった。彼は周囲を気にするようにキョロキョロと見回してから、小走りで彼女のテーブルへとやってくる。その手には、魔法瓶と二つのカップが握られていた。


「温室に行ったら君がいなかったから、探しちゃったよ。……はい、今日は少し冷えるから、林檎とシナモンを効かせた温かいお茶だよ」

「……気が利くわね。ちょうど喉が渇いていたところよ」


 ジークリットが進路希望調査票を裏返して隠すのを、フォルビアの紫の瞳は確かに捉えていた。しかし、彼は一切それに触れず、いつものようにへらっと笑ってカップを差し出す。立ち上る甘くスパイシーな香り。一口飲めば、冷えた身体の奥からジンワリと温まるような、極上の安らぎが広がっていく。この数ヶ月間、フォルビアは彼女の魔力回路が『絶好調である』と錯覚するレベルで、極めて精密にポーションの濃度を調整し続けていた。彼女を油断させ、最も高いところまで舞い上がらせるために。


「進路の書類、書いていたの?」

「ええ。……まあ、私ほどの才能があれば、どこへ行こうと引く手あまただけれど」

「すごいなぁ。ジークは本当に優秀だもんね」


 フォルビアは自分のカップを両手で包み込みながら、心底眩しいものを見るように目を細めた。そして、少しだけ上目遣いになり、探るような視線を彼女に向ける。


「僕は、卒業したらお父様から領地を賜って、領地運営をする予定だよ。ジークにも、僕のそばで手伝ってほしいと思っているんだけど……。ジークは卒業しても、色々忙しくなるんでしょ?」


 もちろん、フォルビアは彼女へ面倒な政務などさせるつもりはない。ただ、彼女が僕との未来をどうはぐらかし、どんな強がりを見せるのか、その反応が見たかっただけだ。


「……あら、貴方一人じゃ領地一つまともに治められないの?仕方ないわね。私の予定が空いた時くらいは、手伝ってあげてもいいわよ」


 ジークリットは、あえて『冒険者』という言葉は出さずに、尊大に言い放った。


「でも、私には私のやるべきことがあるのだから、基本的には貴方が屋敷で大人しく待っていなさい」


 屋敷で待たせるのは、たった三年だけれどね。その間に、貴方なしでも生きられるように自立させてもらうわ。

 そんな内心の冷酷な計画を隠し、彼女は優雅にカップに口をつけた。


「そっか。……じゃあ、ジークが帰ってきた時には、いつでも最高のお茶が飲めるように腕を磨いて待っているね」


 フォルビアは優しく微笑み返した。

 君が冒険者になる夢も、三年後に僕を切り捨てる計画も。……全部知っているよ、ジーク。でも、君が外の世界を歩けるのは、今のうちだけだ。

 彼の紫の瞳の奥で、ドロドロとした純黒の執着が渦を巻く。


「……手が、冷たくなっているよ、ジーク」

「えっ?」


 不意に、フォルビアがテーブルの上にあった彼女の左手を、自身の両手でそっと包み込んだ。彼の少し高めの体温が、秋の冷気で冷えていた彼女の指先に伝わってくる。


「冷えは魔力回路に良くないからね。僕、これくらいしか温めてあげられないけど」

「ちょっと、急に……」


 図書室で手を握られるという行為に、ジークリットは少しだけ頬を染めて顔を背けた。しかし、振り払うことはしない。無能で取り柄のない男だが、こういう犬のように懐いてくる健気なところは、悪くないとすら思い始めていた。

 ああ……可愛い。僕に触れられて、少し照れているんだね。

 フォルビアは、彼女の柔らかな左手をさすりながら、静かに歓喜に震えていた。そして、誰も気づかないほど自然な動作で自身の親指の腹を、彼女の『左手の薬指』の付け根に滑らせる。

 ……うん、完璧だ。僕が作ったあの『外せない銀の指輪』のサイズと、寸分の狂いもない。

 前髪の影に隠れたフォルビアの瞳から、完全に光が消え失せる。

 希望に満ちたジークの進路。輝かしい未来。それら全てをへし折り、永遠に僕の腕の中に縫い付けるための枷は、すでに彼女の指に収まるその時を、僕の部屋の暗闇の中で静かに待っている。


「……卒業まで、あと半年だね、ジーク」

「ええ。あっという間ね」

「うん。……本当に、待ち遠しいな」


 窓の外では、枯れ葉が風に吹かれて舞い落ちていく。未来へ羽ばたこうとする気高い小鳥と、その翼を切り落とす日を指折り数える青年。静かな秋の図書室で、二人の残酷なカウントダウンは、甘い紅茶の香りとともに静かに、そして確実に時を刻んでいた。


つづく

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