第18話 おまじない
男子寮の特別室。分厚いカーテンで完全に光を遮断した密室のなかで、青白い魔導ランプの灯りが、テーブルの上の小さな金属を照らし出していた。
「……できた」
フォルビアの指先で鈍く光るのは、精巧な透かし彫りが施された美しい銀の指輪だった。中央にはめ込まれた紫色の魔石には、彼が数ヶ月かけて極限まで純度を高めた『弱体化ポーション』の成分が、フォルビアの魔力と共に完全に焼き付けられている。指輪が彼女の肌に触れている限り、気付かれないほどの微細な魔力を吸い上げ、彼女の身体能力を『ただの女の子』のレベルに押さえ込み続ける、極上の毒の結晶だ。
「綺麗な銀色だ。ジークの綺麗な橙色の髪によく似合うだろうな」
フォルビアは恍惚とした溜め息を吐き、指輪を愛おしそうに撫でた。しかし、これで完成ではない。ただの魔道具であれば、何かの拍子に外されてしまう可能性がある。あるいは、優秀な魔道具師や解呪師に見られれば、仕掛けに気づかれてしまうかもしれない。彼は引き出しの奥から、使い込まれた一冊の革張りのノートを取り出した。表紙には擦れがあり、何度も何度も読み返された形跡がある。それは、フォルビアがまだ幼かった頃から、密かに書き溜めてきた『呪い』に関する研究ノートだった。
……懐かしいな。これを書き始めたのは、ジークが学園に入学する前だった。
圧倒的な才能と美貌を持つ彼女には、常に周囲からの嫉妬や悪意が付き纏っていた。剣も魔法も苦手で無能な自分には、彼女の隣に立って物理的に敵を排除することはできない。ならばせめて、影から彼女を狙う呪術や呪毒の類から、愛する神様を守る盾になりたい。そんな、純粋で健気な『守護』の思いから、彼は寝る間も惜しんで禁忌の知識を読み漁り、このノートをまとめ上げたのだ。
「ジークを守るために集めた知識が、まさか、こんな形で役に立つ日が来るなんてね」
フォルビアはクスクスと笑いながら、ノートのページをパラパラと捲った。そして、『束縛と同化』の項目が書かれたページで手を止める。
「――『一度装着すれば、術者以外の者には二度と外すことができない呪い』。そして、『外部からの魔力探知を完全に遮断する隠蔽の呪い』」
かつては、彼女に呪いの装飾品が贈られた時の解除方法を編み出すために研究した術式。それを今、彼は自分自身の最高傑作に付与しようとしている。
「ごめんね、ジーク。でも、これも君を守るためなんだよ」
フォルビアは指輪を左手の平に乗せ、右手の指先でノートに記された複雑な呪の紋様を宙に描き出した。彼の紫の瞳から光が消え、ドロドロとした純黒の執着が魔力となって溢れ出す。
「君は美しすぎるし、強すぎる。あのまま冒険者になって外の世界に出れば、いつか必ず、僕の手の届かない場所で傷ついてしまう。……だから、僕の腕の中という、一番安全な世界から出られないようにしてあげるんだ」
呟きと共に、紡がれた呪術が銀の指輪へと吸い込まれていく。一瞬、指輪が毒々しい紫色の光を放ち――次の瞬間には、何事もなかったかのように、清廉で美しい婚約指輪の姿へと戻った。
「よし。これで、完璧だ」
術者であるフォルビアが解除の意志を持たない限り、この指輪はジークリットの薬指から一生外れることはない。たとえ指ごと切り落とそうとしたとしても、呪いが防壁となってそれを阻止するだろう。
「ふふ、あははは……! あぁ、早く君に渡したいな。これを受け取った時の、君の少し照れたような顔が見たい。……そして、何も知らずに一生僕のものになる君を、ずっとずっと、愛してあげるからね」
深夜の密室。かつて愛する人を守るために紡がれた純粋な願いは、今や最も重く残酷な愛の枷へと姿を変え、その銀色の輝きで、何も知らない少女の未来を静かに待ち受けていた。
学園生活もいよいよ最終学年。三年生の夏休みを迎え、うだるような熱気が王都を包み込む季節。プラタナス伯爵邸の庭園に設けられた東屋では、涼やかな風と氷の浮かぶ冷茶が、二人の穏やかな時間を演出していた。
「……ふふ、やっぱり貴方の淹れるお茶は美味しいわね」
「本当?よかった。少し蜂蜜を多めにして、夏バテしないように工夫してみたんだ」
柔らかな夏の日差しを避ける日陰のなか、ジークリットは満足げに目を細めてティーカップを傾けていた。表面上、二人は誰の目から見ても『仲睦まじい婚約者同士』として、穏やかな逢瀬を重ねていた。しかし、ジークリットの胸中にあるのは、あくまで『この無能な男を今のうちだけ利用してあげている』という冷徹なスタンスだ。彼が淹れるお茶は確かに心地よく、弱った時にすがりたくなるほどの安らぎをくれる。だが、彼女の第一の夢は『冒険者として世界に名を馳せること』。卒業後は予定通りにこの男と結婚してやるつもりだが、冒険者としての地位を確立した三年後には離婚状を突きつけ、彼を完全に切り捨てるつもりでいた。無用な引き留めや騒ぎを避けるため、彼には自身の夢も、三年後の離婚の計画も、全て隠し通しているのだ。
彼女が目を伏せて優雅に紅茶を味わうその一瞬。向かいに座るフォルビアの紫の瞳は、極めて冷徹な『計算』の色を帯びていた。
……ジークに与えるポーションの調整は、今のところ完璧だ。あとは時期を見て『指輪』を渡すだけ。……となれば、次に進めるべきは僕自身の盤面だな。
フォルビアの頭の中を占めていたのは、愛する彼女のことだけではない。彼には今、ただ一つだけ抱えている『嬉しい悩み』があった。それは、ジークリットを大人しくさせるために開発した『弱体化ポーション』の扱いについてだ。この世界において、魔法薬といえば『回復』や『身体能力の向上』といった、プラスの効果をもたらすものが常識だった。対象の魔力回路に干渉し、健康体を維持したまま能力だけを安全に低下させる『弱体化』という概念は、極めて乏しい。だからこそ、フォルビアは確信していた。
このポーションを市場に出せば、間違いなく魔法薬の世界に『革命』が起きる。例えば、凶悪な魔獣を生け捕りにする際の麻酔として。あるいは、暴れる犯罪者を無力化するための捕縛用アイテムとして。致死性の毒を使わずに対象を無力化できるこのポーションの需要は、計り知れない。これを特許として売り出せば、得られる莫大な富と名声は、無能な三男坊という彼の立場を根底から覆し、マクファーレン公爵家の当主の座すら容易く奪い取れるほどの力となるだろう。
「……フォルビア?どうかしたの?」
「えっ?あ、ううん!ジークが今日もすっごく綺麗だなって、見惚れていただけだよ」
「もう、調子のいいことばかり言って。馬鹿ね」
フッと鼻で笑う彼女を見つめ返しながら、フォルビアは内心で冷ややかに計画のタイムラインを組み立てていた。
売り出すための論文と量産の準備は、もう水面下で進めている。……でも、まだだ。今これを発表して大騒ぎになれば、万が一にもジークの『不調』とポーションを関連付けられてしまうかもしれない。
彼女の逃げ道を完全に塞ぎ、一生僕のそばから離れられなくするための絶対的な安全が確保されるまでは、この革命的な発明は隠しておかなければならない。
ポーションを市場に解き放つのは、彼女の薬指にあの『外せない指輪』をはめてからだ。……時期としては、もう半年後に迫った卒業の直前。
彼女の未来をへし折り、完全に独占した直後に、自身は公爵家の実権を握るための革命を起こす。そうすれば、翼をもがれた愛しい小鳥を、誰にも文句を言わせず、最も豪華で安全な公爵家の最奥に囲うことができるのだ。
「……来年の夏は、もう学園を卒業して夫婦になっているわね。でも、私も色々と忙しくなる予定だから、こんな風にお茶に付き合ってあげる時間は、もうなくなるかもしれないわ」
ジークリットは、冷めた視線をカップの底に落とした。
大人しく妻の座に収まってあげるのも最初の三年だけ。……このお茶が飲めなくなるのは少し寂しい気もするけれど、所詮はそれまでの関係よ。この男はきっちり切り捨てる。
そんな彼女の強がりで、残酷で、可愛い『秘密』を、フォルビアはとうの昔に見抜いていた。
「そっか……。少し寂しいけど、ジークが自分で決めた道なら、僕は応援するよ」
フォルビアは何も知らないふりをして、ひどく人の良さそうな笑顔を浮かべた。
結婚から三年後に僕を切り捨てて、自由な冒険者として生きるという君の計画。……結婚後、君が外の世界を駆け回ることなど絶対にない。君はもう、僕が与える鳥籠の中でしか生きられなくなっているのだから。
「残りの学園生活、いっぱい思い出を作ろうね、ジーク」
「ええ。せいぜい、最後まで私を楽しませてちょうだい」
夏の鮮やかな緑に囲まれた東屋。すれ違う二人の残酷な秘密が交差するなか、無能なふりをした劇薬の発明者は、来るべき革命と絶対的支配の青写真を、静かに、そして完璧に描き終えていた。
つづく




