第17話 一つでも
王立学園の三年生、七月。開け放たれた窓から、じっとりとした熱気を帯びた夏の風が吹き込む教室に、放課後を告げるベルが鳴り響いた。
「フォルビア・マクファーレン!貴方、真面目に授業を受けてますの?」
帰り支度を進めていたフォルビアの前に、ジークリットが仁王立ちで構えていた。最近少し体調を崩しがちだった彼女だが、今日は本来の『気高き太陽』としての覇気を完全に取り戻しているようだ。黄金の瞳を吊り上げ、ズバッと彼を指差すその姿は、絵画のように美しく、そして恐ろしい。今日、廊下の掲示板に期末試験の成績が貼り出されていたことを思い出し、フォルビアはビクッと肩を揺らして口を噤んだ。
「最終学年になったというのに、あの成績はなんですの?!一体どうしたらあんな恥ずかしい成績でいられるのかしら!」
学年首席の座を当然のように維持し続ける彼女に対して、フォルビアの成績は惨憺たるものだった。幼少期から魔法の才の乏しい彼は、実技試験では常に最底辺。意図的に手を抜いているとはいえ、筆記試験でも下から数える方が早く、今回もその例外ではなかったのだ。
「ごめん……」
「謝罪は結構よ! そんな暇があるなら勉学に励みなさい!」
「うん……」
「せめて、一つでも何かを成し遂げたらどうかしら?」
「……うん、そうだよね」
『何かを成し遂げろ』。これは、不甲斐ない婚約者に対して、ジークリットが幾度となく投げつけてきた言葉だ。フォルビアは彼女の厳しい言葉に一切反発せず、シュンと肩を落として、力なくそれを飲み込んだ。
――表向きは。
ああ……すごくいい。今日のジークは、とても元気だ。
俯いた前髪の陰で、フォルビアの紫の瞳は、ドロドロとした歓喜に蕩けていた。彼女の怒りに満ちた声が、鼓膜を甘く撫でる。彼女の黄金の瞳が、今この瞬間、教室の誰でもなく『無能で不甲斐ない自分だけ』を真っ直ぐに射抜いている。その事実がたまらなく嬉しくて、フォルビアの胸の奥では黒い泥がポコポコと甘い音を立てて沸騰していた。
最近、ポーションの量を減らしておいて正解だったな。やっぱり君は、そうやって僕を見下ろして怒っている顔が一番綺麗だ。
「聞いているの、フォルビア!公爵家の人間として、少しは意地を見せなさい!」
「うん、聞いてるよ。ごめんね、ジーク。僕、才能がないから……君に迷惑ばかりかけて」
フォルビアが情けない声で縋るように見上げる。
「はぁ……」
ジークリットは深いため息をつき、怒った顔のまま彼の乱れたクラヴァットを直してくれた。厳しい言葉とは裏腹の、指先の温もりにフォルビアはうっとりと目を細める。
『一つでも何かを成し遂げたらどうかしら』。彼女のその言葉が、頭の中で何度も、甘く反響する。
成し遂げるよ、ジーク。もうすぐだ。魔法の成績なんて、どうでもいい。
彼がこの学園生活の全てを、いや、己の命と寿命すらも削って水面下で進めてきた『一つの偉業』。彼女の強大な魔力を恒久的に削り取るための『銀の指輪』の術式は、ついに最終段階に入ろうとしていた。あとは、卒業と同時に彼女を閉じ込めるための、あの地下温室の結界を完成させるだけ。
天才の君に追いつくための、僕だけの傑作。それが完成した時、君はもう、誰の目にも触れることのない僕だけの宝物になる。
「……フォルビア? 何をニヤニヤしているの。反省しているのかしら」
「えっ、あ、してないよ!じゃなくて、してるよ!ただ、ジークが僕のために怒ってくれるのが、嬉しくて……」
「っ、な……相変わらず気持ち悪いこと言うわね、貴方は!」
ジークリットは呆れたように眉間を押さえ、「もう帰るわよ」と踵を返して教室の出口へと向かった。
「待ってよ、ジーク!」
フォルビアは慌てて鞄を掴み、彼女の背中を追いかける。
待っていてね、僕の神様。
太陽の光を浴びて歩く彼女の気高い背中を見つめながら、無能な三男坊は、誰にも気づかれないように薄く、酷薄で、この世の誰よりも深い愛に満ちた笑みを浮かべた。君が僕に望んだ通り、僕は君の人生を終わらせるという、世界で一番美しくて恐ろしい偉業を『成し遂げて』みせるから。
男子寮の特別室。分厚いカーテンで完全に光を遮断した密室のなかで、青白い魔導ランプの灯りが、テーブルの上の小さな金属を照らし出していた。
「……できた」
フォルビアの指先で鈍く光るのは、精巧な透かし彫りが施された美しい銀の指輪だった。中央にはめ込まれた紫色の魔石には、彼が数ヶ月かけて極限まで純度を高めた『弱体化ポーション』の成分が、フォルビアの魔力と共に完全に焼き付けられている。指輪が彼女の肌に触れている限り、膨大な魔力を吸い上げ、彼女の身体能力を『ただの貴族令嬢』のレベルに押さえ込み続ける、極上の毒の結晶だ。
「綺麗な銀色だ。ジークの綺麗な橙色の髪によく似合うだろうな」
フォルビアは恍惚とした溜め息を吐き、指輪を愛おしそうに撫でた。しかし、これで完成ではない。ただの魔道具であれば、何かの拍子に外されてしまう可能性がある。あるいは、優秀な魔道具師や解呪師に見られれば、仕掛けに気づかれてしまうかもしれない。彼は引き出しの奥から、使い込まれた一冊の革張りのノートを取り出した。表紙には擦れがあり、何度も何度も読み返された形跡がある。それは、フォルビアがまだ幼かった頃から、密かに書き溜めてきた『呪い』に関する研究ノートだった。
……懐かしいな。これを書き始めたのは、ジークが学園に入学する前だった。
圧倒的な才能と美貌を持つ彼女には、常に周囲からの嫉妬や悪意が付き纏っていた。剣も魔法も苦手で無能な自分には、彼女の隣に立って物理的に敵を排除することはできない。ならばせめて、影から彼女を狙う呪術や呪毒の類から、愛する神様を守る盾になりたい。そんな、純粋で健気な『守護』の思いから、彼は寝る間も惜しんで禁忌の知識を読み漁り、このノートをまとめ上げたのだ。
「ジークを守るために集めた知識が、まさか、こんな形で役に立つ日が来るなんてね」
フォルビアはクスクスと笑いながら、ノートのページをパラパラと捲った。そして、『束縛と同化』の項目が書かれたページで手を止める。
「――『一度装着すれば、術者以外の者には二度と外すことができない呪い』。そして、『外部からの魔力探知を完全に遮断する隠蔽の呪い』」
かつては、彼女に呪いの装飾品が贈られた時の解除方法を編み出すために研究した術式。それを今、彼は自分自身の最高傑作に付与しようとしている。
「ごめんね、ジーク。でも、これも君を守るためなんだよ」
フォルビアは指輪を左手の平に乗せ、右手の指先でノートに記された複雑な呪の紋様を宙に描き出した。彼の紫の瞳から光が消え、ドロドロとした純黒の執着が魔力となって溢れ出す。
「君は美しすぎるし、強すぎる。あのまま冒険者になって外の世界に出れば、いつか必ず、僕の手の届かない場所で傷ついてしまう。……だから、僕の腕の中という、一番安全な世界から出られないようにしてあげるんだ」
呟きと共に、紡がれた呪術が銀の指輪へと吸い込まれていく。一瞬、指輪が毒々しい紫色の光を放ち――次の瞬間には、何事もなかったかのように、清廉で美しい婚約指輪の姿へと戻った。
「よし。これで、完璧だ」
術者であるフォルビアが解除の意志を持たない限り、この指輪はジークリットの薬指から一生外れることはない。たとえ指ごと切り落とそうとしたとしても、呪いが防壁となってそれを阻止するだろう。
「ふふ、あははは……!あぁ、早く君に渡したいな。これを受け取った時の、君の驚いた顔が見たい。……そして、何も知らずに一生僕のものになる君を、ずっとずっと、愛してあげるからね」
深夜の密室。かつて愛する人を守るために紡がれた純粋な願いは、今や最も重く残酷な愛の枷へと姿を変えた。その銀色の輝きは、何も知らない少女の未来を静かに待ち受けていた。
つづく




