第2話 気高き傷痕
婚約が結ばれてからというもの、フォルビアとジークリットの間には定期的にお茶会が開かれるようになった。しかし、それは名ばかりの婚約者交流だった。
「……あの、ジーク。この焼き菓子、美味しいね」
「そうね」
「あ、あの花……すごく綺麗に咲いて――」
「そうね」
向かいの席に座るジークリットは、フォルビアと目を合わせようともしない。常に冷ややかな視線を伏せ、相槌とも呼べない短い言葉を返すだけだ。そのそっけない態度に、幼いフォルビアは肩をすくめ、俯くしかなかった。
嫌われているんだ。当然だよね、僕みたいな何の取り柄もない男が婚約者だなんて……。
惨めな気持ちを抱えながら、それでも彼女の顔を見たくて、フォルビアはこっそりと視線を上げる。ティーカップに手を伸ばした彼女の、ふわりと揺れた袖口。その奥に、フォルビアは見てはいけないものを見てしまった。白く滑らかなはずの彼女の腕に、痛々しい赤い擦り傷がいくつも刻まれていたのだ。それも、今日できたような新しい傷から、かさぶたになりかけた古い傷まで。
「ジーク、その腕……っ!怪我をしてるの?!」
思わず立ち上がり、身を乗り出したフォルビアを、ジークリットの鋭い金の瞳が射抜いた。彼女はバッと袖を下ろし、傷を隠す。
「……傷などないわ」
「でも、血が滲んで……痛くないの?薬を塗らないと……」
「触らないで!」
パシッ、と。伸ばしかけたフォルビアの手が、冷たく弾かれた。彼女の瞳には、明らかな苛立ちと、見下すような色が浮かんでいた。
「公爵家の三男として、のうのうと生きている貴方には分からないわ。……私のことに、口出ししないでちょうだい」
氷のような拒絶。
「……ごめん」
フォルビアは弾かれた自分の手を握りしめ、ただ力なく謝ることしかできなかった。
次のお茶会は、プラタナス伯爵家の広大な庭園で開かれた。ジークリットが席を外している間、手持ち沙汰になったフォルビアは、一人で庭園を歩いていた。手入れの行き届いた美しい薔薇園を抜け、屋敷の裏手へと続く小道に迷い込んだ時だ。
「……え?」
フォルビアは足を止め、その光景に息を呑んだ。
庭園の隅、背の高い木々に隠された一角。そこは、美しいプラタナス家の庭園には似つかわしくない、荒れ果てた土の空間だった。地面は魔法の炎で黒く焦げ、あるいは抉れ、無残なクレーターをいくつも作っている。立てられた木の人形は剣で激しく打ち据えられ、原形を留めないほどにささくれ立っていた。傍らに転がる木剣の持ち手は、血と汗で黒く変色している。
それは、紛れもない『修練の跡』だった。しかも、大人が何人も立ち入ったような跡ではない。小さな足跡が、たった一人で、何度も何度も同じ場所を行き来し、血の滲むような反復練習を繰り返した痕跡。
――公爵家の三男として、のうのうと生きている貴方には分からないわ。
彼女の拒絶の言葉が、脳裏に蘇る。
『天才』。皆は彼女をそう呼ぶ。息をするように魔法を操り、剣を振るう神童だと。しかし、違ったのだ。彼女の才能は、天から降ってきたものではない。この誰も見ていない泥臭い場所で、自らの腕に無数の傷を作り、血を流し、孤独に打ち克ってきた『努力の賜物』だったのだ。
「そうか……。だからジークは、僕に冷たかったんだ」
フォルビアは、黒く変色した木剣の柄にそっと触れた。自分には才能がないと嘆き、諦め、のうのうと安全な場所で泣いているだけの自分。そんな人間が、政略結婚という逃れられない運命と必死に戦い、自らを律して高みへ登ろうとする彼女の目に、どれほど滑稽で、苛立たしく映っていたことか。
「……かっこいいな」
ポツリと、フォルビアの口から感嘆の吐息が漏れた。彼女はただ美しいだけじゃない。その魂の在り方が、誰よりも気高く、強烈に美しいのだ。嫌われて当然だ。見下されて当然だ。それでも――いや、だからこそ、フォルビアは彼女にどうしようもなく惹かれていく自分を止められなかった。
しかし、同時に冷たい現実がフォルビアの足元にまとわりつく。
僕がジークと同じように剣を振っても、到底追いつけない。才能がない僕が、普通の努力をしたところで、伸び代なんてたかが知れている。彼女の隣に立つ資格はない。では、どうすればいい?どうすれば、彼女の役に立てる?彼女が血を流して得た強さを、この弱い僕が支えるためには、一体何が必要なんだ?
フォルビアの紫の瞳が、焦げた地面を見つめたまま、ジワリと暗い熱を帯びていく。
剣が駄目なら。魔法が駄目なら。誰にも見向きされない、誰も辿り着いたことのない『知識』の深淵を覗くしかない。
僕にできること。僕にしかできないことで、いつか必ず、君の役に立ってみせるよ。……ジーク。
気高く美しい少女への純粋な敬意と愛情。それが、彼の中に渦巻く劣等感という仄暗い土の中でひっそりと芽吹き、『執着』という名の歪な根を深く下ろした瞬間だった。
つづく




