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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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第15話 依存


 学園に、瑞々しい新緑の季節が訪れていた。春休みの間、あんなにジークリットを苦しめた不調は、今では嘘のように消え去っていた。


「……さすがはジークリット様!初夏の日差しさえ、貴女の美しさを引き立てる飾りに過ぎませんわ!」

「今日の演習での剣筋、見惚れてしまいました。やはり貴女は私たちの希望です」


 昼下がりのカフェテラス。ジークリットは、周囲を囲む羽虫たちの称賛を、涼しげな顔で受け流していた。だが、その内心は深い満足感で満たされていた。あの日、フォルビアの腕の中で味わった絶望的な無力感は、やはり一時の悪夢だったのだ。今の自分は、誰よりも強く、美しく、自由だ。

 ふふ、あんなに心配していたフォルビアが滑稽だわ。……でも、あのお人好しのおかげで、家族に知られずに済んだのは事実ね。たまにはあいつの淹れるお茶に、付き合ってあげてもいいわ。

 ジークリットの足は、自然と例の温室へと向かっていた。


「あ、ジーク。今日も来てくれたんだね。……顔色がいいね。本当に、元気になってよかったよ」


 温室では、フォルビアがいつものように気の抜けた笑顔で彼女を迎えた。ジークリットが椅子に座るのを確認し、彼は手慣れた所作で紅茶を注ぐ。

 ……一、二年生の時のような、露骨な麻痺はもういらない。今回は、もっと優しく、もっと深く……彼女に『私には休息が必要だ』と刷り込むための、遅効性のポーションだ。フォルビアの紫の瞳から、一瞬だけ光が消える。彼が今回のポーションに込めたのは、即効性の毒ではない。数時間かけてじわじわと身体を重くし、心臓を騒つかせ、漠然とした不安を煽るための微細な『毒』だった。


「はい、お待たせ。今日は初夏に合わせて、少し爽やかなブレンドにしてみたんだ」

「……ええ。いただきます」


 ジークリットは、何の疑いもなくそのお茶を飲み干した。

 その数時間後。午後の実技演習の最中だった。


「次は、模擬試合。ジークリット・プラタナス対、ルイス伯爵令息!」


 教官の声に、ジークリットは颯爽と前に出た。木剣を構え、相手の動きを見据える。本来なら、瞬き一つする間に決着がつくはずの相手だった。

 しかし。


「……っ、ぁ……?」


 鋭く踏み込もうとした瞬間、心臓がドクン、と大きく脈打った。身体が、熱い。肺から酸素が消えたかのように呼吸が苦しくなり、胸の奥をギュッと掴まれたような圧迫感が彼女を襲う。

 なぜ……!? どうして、今なの……!?

 ジークリットは木剣を落とし、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。左手で強く胸を押さえ、苦しげに喘ぐ。春休みのあの時のような、ただの身体の重さではない。もっと本能的な死への恐怖、自分の身体が内側から壊れていくような生々しい感覚。


「ジークリット様!? どうされたのですか!」

「だ、誰か! 保健室へ……っ」


 周囲が騒然となるなか、ジークリットの意識は混濁していく。

 せっかく元に戻ったのに。また、あの闇へ引き戻されるのか。

 絶望と混乱で涙が滲んだその時――。


「ジーク!!」


 群衆をかき分け、必死な形相のフォルビアが飛び込んできた。彼は教官や周囲の生徒たちが止める間もなく、地面に伏した彼女の元へ駆け寄ると、震える手でその身体を強く抱きしめた。


「ジーク、大丈夫だ。僕がいる。すぐ、すぐによくなるから……!」


 フォルビアは、か弱い自分からは想像もつかないような早業で、ジークリットの膝下と背中に腕を通した。そのまま、彼女の身体を力強く横抱きにする――。


「……っ、ふぉ……る……び、ぁ……」


 意識が遠のくなか、ジークリットは自分の身体が宙に浮くのを感じた。保健室へと急ぐ彼の足音。必死に自分の名を呼ぶ、涙声の叫び。周囲の羽虫たちが狼狽えるだけのなかで、この男だけが、一瞬で自分を見つけ、救い上げてくれた。

 ああ、やっぱり……私が弱っている時に、助けてくれるのは……この人だけ……。

 混乱の極致にあった彼女の精神は、彼に抱かれているという安心感に、縋るように依存し始めていた。

 保健室へと向かう廊下。フォルビアは、胸元に顔を埋めて苦しむジークリットの髪を、誰にも見えないように優しく、ゆっくりとなぞった。

 うん、いいよジーク。もっと苦しんで。もっと混乱して。そうすればするほど、君にとっての唯一の正解が、僕になるんだから。

 保健室の扉を蹴り開けるフォルビア。その瞳の奥には、愛する人を腕に抱く充足感と、次なる罠を仕掛けるための冷徹な狂気が、静かに、深く渦巻いていた。






 保健室の窓から差し込む夕日が、白いシーツをオレンジ色に染め上げていた。ベッドの上で、ジークリットはゆっくりと重い瞼を開ける。


「……ん」


 息を吸い込む。先ほどの演習中に感じた、胸が押し潰されるような激しい動悸と息苦しさは、嘘のように消え去っていた。魔力回路の不快な軋みもなく、深い休息を経た身体は本来の軽さを取り戻している。


「ジ、ジーク……っ!」


 すぐ隣から、ひどく掠れた声が聞こえた。視線を向けると、ベッドの脇の丸椅子に座ったフォルビアが、両手で顔を覆って震えていた。彼の緑色の前髪の隙間から、大粒の涙がポロポロとシーツに零れ落ちている。彼女が目覚めるまでの数時間、彼はずっとここで、生きた心地がしないまま彼女の手を握りしめていたのだろう。


「フォル、ビア……」

「ああ、よかった……! 本当に、よかったぁ……っ」


 ジークリットの声を聞いた瞬間、フォルビアは子供のように声を上げて泣き出した。彼女の手を両手で包み込み、自分の額を押し当ててしゃくり上げる。公爵家の令息としての体面など全て投げ打った、あまりにも無様で、あまりにも純粋な涙だった。

 ……本当に、呆れるほどお人好しで、馬鹿な男。

 普段の彼女なら、「泣き顔なんて見苦しいわ」と冷たく突き放していただろう。しかし、混濁する意識の中で、誰よりも早く自分を抱き上げ、必死に名前を呼んでくれた彼の声が、今も耳の奥にこびりついている。こんなにも自分のことを大切に想い、自分の不調に心底怯えて涙を流してくれる人間が、この広い世界に彼以外にいるだろうか。


「……馬鹿ね、フォルビア。ただ少し、立ち眩みがしただけよ。そんなに泣くことないじゃない」


 ジークリットの口から、ふわりと、くすくすとした笑い声が零れた。それは、周囲の羽虫たちに向けるような優越感に満ちた笑みでも、家族に向けるような冷ややかな笑みでもない。ただ純粋に、目の前のフォルビアに向けられた、毒気のない無防備な笑顔だった。


「だって、だって……ジークが、死んじゃうかと思って……っ」

「大袈裟ね。私はそんなに弱くないわ。ほら、もう泣かないの」


 ジークリットは空いている方の手を伸ばし、彼のサラサラとした緑色の髪を、宥めるように不器用に撫でた。その滑らかな感触と、指先から伝わる彼女の温もり。それに触れられた瞬間、フォルビアの脳裏に、忘れもしない『あの日』の記憶が鮮明に蘇っていた。

 二人が初めて顔を合わせた、幼少期のある日。顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる彼を見下ろし、逆光を背に受けて立つ凛とした少女は、慰めの言葉など一つもかけず、ただ冷徹に言い放ったのだ。


『泣くよりも無駄なことはないわ。自分にできることから始めるの。前を向いて』


 その圧倒的な説得力と気高さに、フォルビアの胸は恐怖ではなく、痺れるような憧憬に貫かれた。そして、彼女の厳しい叱責に彼が涙ながらに返事をすると、彼女は満足げに微笑み……まるで拾った子犬を愛でるように、無造作に彼の頭を撫でてくれたのだ。あの日、彼女の小さな手の温もりに、彼は生まれて初めて自分の『居場所』を見つけた気がした。

 あの日、気まぐれに拾い上げられた子犬のようだった僕に、彼女は今、こんなにも柔らかく無防備に、たった一人の理解者に縋るように触れてくれている。

 ああ……ジーク。僕は、あの日君に頭を撫でられた瞬間から、ずっと君だけのものだったんだ。……圧倒的な光だった君が今、こんなにも愛おしく、僕だけに甘えている。他ならぬ僕の手によって。君の笑顔は、僕が君のために淹れた毒がもたらした、仮初めの安らぎかもしれない。けれど、あの日見つけた僕の『居場所』が、今はこうして僕の腕の中にすっぽりと収まっている。君が僕にその無防備な顔を向けてくれるなら、僕はもう、それだけで満たされてしまう。この笑顔を、この温もりを、僕は一生忘れない。いや、一生僕のものとして閉じ込めておきたい。僕だけの女神よ、もっと僕に甘えて、もっと僕を頼って。

 純粋な多幸感と、あの日から積み重なってきた執着が入り混じり、フォルビアの心臓は狂おしいほどの速さで脈打つ。

 この瞬間を、この笑顔を、一生僕だけの鳥籠の中に閉じ込めておきたい。あの日見つけた僕の全てを、もう二度と、僕の手から逃がさない。


「……ジーク。本当に、無事でよかった」


 フォルビアは涙で濡れた顔を上げ、花が綻ぶような、ひどく無垢な笑顔を見せた。あの日から、この笑顔を自分だけが独占することをずっと夢見ていたのだから。そんな彼の恐ろしいほど純粋で重い愛情など知る由もなく、ジークリットは「心配性ね」と再び柔らかく微笑み返す。

 夕日に染まる保健室。心を通わせたように見える甘やかな空気の中で。無能な婚約者はただ、彼女が自分に向けてくれた笑顔の尊さと、出会ったあの日から積み重なってきた執着の愛にひどく深く、溺れていくのだった。


つづく

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