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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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第14話 偽りの回復


 あの日、ジークリットの魔力と身体能力を根こそぎ奪った『仕上げの猛毒』の効力は、フォルビアの計算通り、非常に長く、そして重く彼女の身体に居座っていた。だからこそ、フォルビアは残りの春休みの期間、彼女の紅茶にポーションを一滴も混ぜることはなかった。

 今、さらに毒を重ねれば、ジークの精神が完全に折れてしまうかもしれない。それに……『僕と一緒にいれば治る』と錯覚させた方が、これからの調教が格段に楽になるからね。

 春休みの間、フォルビアは毎日プラタナス伯爵邸へと通い詰めた。彼が徹底したのは、ジークリットの『不調』を家族から完璧に隠し通すことだ。


「おお、これはこれはフォルビア様!今日も我が娘のために、わざわざ足を運んでくださるとは!」


 廊下で鉢合わせたプラタナス伯爵は、揉み手をしながら、顔いっぱいに卑屈な笑みを浮かべてフォルビアを迎えた。マクファーレン公爵家という巨大な権力と、そこから流れ込むであろう金銭的な利益。伯爵にとって、目の前の青年はその象徴でしかなかった。


「おはようございます、伯爵様。いえ、僕の方こそ、毎日ジークの時間を奪ってしまって心苦しいのですが……」

「滅相もございません!公爵家の……あ、いや、フォルビア様に頼りにされるなど、ジークリットも光栄に思っているはずですぞ!」


 伯爵はヘコヘコと頭を下げながら、その濁った瞳の奥でフォルビアを冷ややかに値踏みしていた。

 全く、マクファーレン家の看板がなければ、誰がこんな無能な小僧に。ジークリットに家庭教師をさせているという話だが、教わる側がこれでは先が思いやられる。……まあ、我が家に金さえ運んでくれれば、中身など空っぽで構わんがな。

 透けて見えるような侮蔑と、それを覆い隠す醜い媚び。フォルビアはその全てを察しながらも、気弱な婚約者の顔を崩さなかった。


「実は、来年度の魔法史の課題が難しくて……ジークに付きっきりで見てもらっているんです。彼女、僕の出来が悪すぎるせいで、誰にも邪魔されずに集中したいと言っていて。お騒がせしてすみません」

「はっはっは!それはジークリットも大変だ。よろしい、私からも使用人たちに、決して部屋の邪魔をせぬよう厳命しておきましょう!フォルビア様も、どうぞ存分に我が娘を使い倒してください!」


 伯爵は『公爵家への点数稼ぎができた』とばかりに満足げに去っていった。

 鋭い観察眼を持つ次期当主の兄クロードに対しては、『野営訓練で得た着想を論文にまとめている』と知的なカモフラージュで遠ざけ、当主である父に対しては、自身の『無能さ』を餌にして無関心を買い取った。こうして、誰一人としてジークリットの異変に気づく者はいないまま、邸内はフォルビアにとって完璧に管理された閉鎖空間となった。

 一方、自室のベッドで安静にしていたジークリットは、日を追うごとに自分の身体に起きる『変化』を肌で感じていた。


「……火球(ファイヤーボール)


 小さく呟き、指先に魔力を集中させる。数日前は火花しか散らなかった指先に、今日はぽつりと、親指ほどの小さな炎が灯った。身体の重さも少しずつ抜け、一人で立ち上がり、部屋の中を歩き回れるまでには体力が戻ってきている。

 よかった……!少しずつだけど、ちゃんと魔力が練れるようになっているわ。

 ジークリットは安堵のあまり、胸元を強く握りしめた。やはり、ただの疲労だったのだ。フォルビアが毒を盛ったのではないかというあの日の疑念は、今では馬鹿げた妄想のように思えた。

 コンコン、と。控えめなノックの音と共に、「ジーク、入ってもいい?」というフォルビアの声が響く。ジークリットの表情が、ふわりと柔らかく解れる。


「ええ、入ってちょうだい」


 部屋に入ってきたフォルビアは、ワゴンに温かい紅茶と軽食を乗せていた。彼が淹れてくれるお茶には、何の仕掛けもなかった。ただ純粋に美味しく、疲れた身体を癒してくれるだけの普通のお茶。それを飲むたびに、彼女のメンタルは驚くほど安定していった。


「顔色、ずいぶん良くなったね。お父様も、ジークが勉強熱心で感心しているって言っていたよ」

「……お父様が?どうせ、貴方に気に入られようと調子の良いことを言ったのでしょう。あの人は、そういう人よ」


 ジークリットは、ベッドの縁に腰掛けながら、自嘲気味に口角を上げた。家族ですら自分の体調に気づかず、金や権力のことばかり考えている。そんな中で、自分の醜い姿を隠し、誰よりも献身的に尽くしてくれているのは、目の前の無力な婚約者だけだ。その事実が、彼女の中に確かな『信頼』と、少しの『甘え』を芽生えさせていた。


「ふふ、そうかな。でも、ジークが笑ってくれるなら、僕はお父様にどう思われていてもいいよ。僕は、ジークの味方だからさ」

「……本当に、貴方はおめでたい人ね」


 憎まれ口を叩きながら、ティーカップを受け取る彼女の指先が、ほんの少しだけフォルビアの指に触れる。彼女はそれを避けることも、嫌悪することもしなかった。

 ああ……可愛いな。本当に、可愛い。僕のジークリット。

 フォルビアは、優しく微笑み返しながら、心の中で狂喜の声を上げていた。

 本来なら信頼関係がある筈の父は金に眩み、兄は無関心。婚約者である僕には、以前よりも柔和に話すジークリットの姿。完全に落ちた。彼女は今、自分の回復が『ただの自然治癒』だと信じ切り、僕を唯一の理解者として頼っている。

 春の柔らかな日差しが差し込む部屋で、二人は穏やかなお茶の時間を楽しんでいた。ジークリットの心は希望に満ちていた。あと少し休めば、元の完璧な自分に戻れると。しかし、フォルビアの紫の瞳の奥では、すでに新学期からの『より濃密な調教のスケジュール』が、黒々とした泥のように渦巻いているのだった。


つづく

15話から、ついに最終学年です。

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