第13話 泥の底の違和感
学園の二学年が終わり、春の長期休暇。生徒たちがそれぞれの領地へ帰郷し、静寂を取り戻した王都のプラタナス伯爵邸に、連日のようにマクファーレン家の馬車が横付けされていた。
「……今日も来たの?貴方、本当に自分の領地の仕事はないわけ?」
豪奢な応接室のソファに深く腰掛けたジークリットは、呆れたようにため息をついた。春休みに入ってからというもの、婚約者であるフォルビアは毎日、判で押したように彼女の屋敷へと通い詰めている。
「あはは、ごめんね。でも、春休み中は学園の温室が使えないから……僕が直接お茶を淹れに来ないと、ジークがゆっくり休めないかと思って」
フォルビアはいつものような覇気のない笑顔で、持参した最高級の茶葉とティーセットをテーブルに広げた。
「余計なお世話よ」
ジークリットは毒づきながらも、彼を追い返そうとはしなかった。彼が淹れるお茶の味が、どうしようもなく自分の身体に馴染んでしまっているのを自覚していたからだ。
学園だと、万が一彼女が倒れた時に他の生徒の目がある。でも、ここなら……この閉ざされた空間なら、新しいポーションの効き目を、安全に限界まで試せる。ティーポットを傾けるフォルビアの紫の瞳が、前髪の影で密かにハイライトを失う。彼が今日用意してきたポーションは、野営訓練の後に再調合した『仕上げの猛毒』。魔力回路の伝達を物理的に遮断し、身体能力やそれに伴う機能を急激に低下させる極めて濃度の高い劇薬だ。
「はい、お待たせ。今日は少しだけ、茶葉を変えてみたんだ」
差し出されたティーカップ。ジークリットは微かな渇きを覚える喉を鳴らし、一切の疑いを持たずにカップを口に運んだ。コクン、と。一口飲み込んだ、その十数秒後だった。
「……え?」
ジークリットの金色の瞳が、見開かれた。頭の芯は、これ以上ないほど冴え渡っている。意識もはっきりしている。だというのに、手足の先から急速に感覚が抜け落ち、身体中の魔力回路が鈍い悲鳴を上げてショートしていくような、圧倒的な『重力』が彼女を襲った。
ガチャンッ!
力が入らなくなった指先からカップが滑り落ち、ソーサーとぶつかって甲高い音を立てた。立ち上がろうと足に力を込めるが、まるで鉛のように重く、ピクリとも動かない。それどころか、目の前にいるフォルビアの顔が二重、三重にブレて見え、動体視力すらも急激に奪われていくのが分かった。
「ジ、ジーク!? どうしたの、大丈夫!?」
フォルビアが血相を変えて立ち上がり、彼女の元へ駆け寄ってきた。その声には明らかな動揺とパニックが混じっている。『無能で頼りない、ただ心配することしかできない婚約者』の完璧な演技だった。
「ぁ……っ、こ、れ……」
ジークリットはギリッと奥歯を噛み締めた。自分の身体に何が起きているのか。精神は普段通り、自尊心で満ち溢れているのに、身体だけが他人のものになってしまったかのように言うことを聞かない。その圧倒的な理不尽さが、彼女の気高い心に強烈な屈辱と恐怖をもたらした。
「すごい汗だ……! 誰か呼んでこようか、お医者様を……っ!」
「……呼ば、ないで……っ」
ジークリットは震える腕を必死に持ち上げ、フォルビアの胸ぐらを掴もうとした。しかし、その手は力なく彼の胸元に触れるだけで、突き飛ばすことすらできない。
「こんな姿、誰にも……見せられない……!」
彼女の金色の瞳は、視界がブレていながらも、鋭い光を放ってフォルビアを睨みつけていた。天才としての誇り。絶対に屈しないという精神の強さ。フォルビアは、パニックに陥った表情のまま彼女の震える身体を抱きとめ――その背後に回した顔だけで、小さく舌打ちをした。
……少し、強くしすぎたな。
すっぽりと自分の腕の中に収まり、抵抗すらできない彼女の無力さは、確かに甘美だった。しかし、フォルビアはすぐにその快楽を脳内から締め出した。彼が望んでいるのは、彼女の身体の自由を完全に奪い、寝たきりの人形にすることではない。そんなことをすれば、彼女の健康が損なわれ、何十年も共に生きるという彼にとっての『完璧な未来』が崩れてしまう。
僕が欲しいのは、冒険者になれない『普通の女の子』のジークだ。
規格外の魔力と、魔物をなぎ倒す超人的な身体能力。それさえ削ぎ落とすことができれば、それでいいのだ。彼女がごく普通の、健康な貴族令嬢の体力と魔力になってくれれば、外の危険な世界へ飛び出すことはできない。そして何より、普通の女の子の腕力であれば、いざ彼女が逃げ出そうとした時、自分の力だけで簡単に制圧し、腕の中に閉じ込めておくことができる。
「分かった、誰も呼ばないよ。僕がずっとついているからね、ジーク」
フォルビアは震える声でそう囁きながら、彼女の背中を優しく撫でた。彼女を気遣いながら頭の中で、冷徹にポーションの配合を計算し直す。抽出液の濃度をあと四%下げて、遅効性の成分を増やそう。そうすれば、彼女は健康なまま、少しずつ確実に『ただの女の子』へと落ちていく。
誰の目にも触れない春の伯爵邸。気高い精神と無力な身体を持て余す彼女を抱きしめながら、青年は彼女と一生を添い遂げるための『完璧な枷』の最終調整を、ひっそりと終わらせていたのだった。
プラタナス伯爵邸の応接室。呼吸を荒らげ、ソファに背中を預けたまま身動きが取れなくなったジークリットの額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいた。
「大丈夫だよ、ジーク。ゆっくり息をして……」
フォルビアは彼女の足元に跪き、震える手で白いハンカチを取り出すと、彼女の額の汗を甲斐甲斐しく拭い始めた。その紫の瞳には涙が滲み、どうしていいか分からないといったパニックの色が本物のように浮かんでいる。
「きっと、野営実地訓練の疲労が一気に押し寄せてきたんだよ。ジークは人一倍責任感が強いから、森の中でずっと気を張って、無理をしていたんでしょう?その疲れが、今になって魔力回路に影響を出したんだ」
縋るような、心底彼女を案じる震えた声。一見すれば、それは非常に理にかなった推測だった。過酷な訓練の後に体調を崩す者は珍しくない。医者が聞けば、間違いなく『疲労による一時的な魔力枯渇と神経の麻痺』だと診断するだろう。
しかし。ジークリットの頭の芯は、氷のように冷たく冴え渡っていた。
……あり得ないわ。疲労?そんな素人のような理由で、百年に一人と謳われるこの私の魔力回路が、完全に沈黙するなどということがあってたまるものか。
これまでどれほど過酷な修練を積もうと、魔力が枯渇したことなど一度もない。ましてや、手足の感覚が抜け落ち、動体視力まで奪われるような『物理的な麻痺』など、ただの疲労で起こるはずがないのだ。
これは……外部からの干渉よ。病気でも疲労でもない。何らかの『毒』か、あるいは呪い……。
ジークリットの金色の瞳が、床に転がったティーカップの残骸をスッと捉えた。私が今日口にしたのは、あの紅茶と伯爵邸での食事のみ。他の家族が平時と変わらなければ、食事の線は消えるだろう。疑いの矢印は、自然と目の前で震えている婚約者へと向く。
「フォルビア……貴方……っ」
「えっ?何、ジーク?水が欲しい?それとも、やっぱりお医者様を……」
「……」
ギリッと睨みつける彼女の視線を受け止めたフォルビアの顔には、心底オドオドとした、頼りない青年の動揺しかなかった。
この男が、私に毒を盛った?……馬鹿げているわ。
ジークリットは自身の直感を、すぐさま理屈で否定した。第一に、あの紅茶から毒の匂いや魔力の痕跡は一切感じられなかった。天才である私の超感覚を誤魔化せるほどの劇薬を、剣も魔法も使えないこの無能な男が調合できるはずがない。第二に、彼にそんな度胸があるはずがない。幼い頃から私に怯え、少しでも役に立とうと媚びへつらってきた男だ。もしこれが彼の手によるものなら、今頃彼は私の鋭い視線に耐えきれず、自らボロを出して泣き喚いているはずだ。証拠は何一つない。目の前にいるのは、ただの『心配性で無能な婚約者』だけだ。だというのに。
……どうして私の本能は、こんなにも警鐘を鳴らしているの?
ジークリットの胸の奥で、正体不明の悪寒が渦を巻いていた。彼のハンカチが額に触れるたび、優しい声で名前を呼ばれるたび。安心するどころか、まるで巨大な蜘蛛の巣のど真ん中に捕らえられ、じわじわと糸を巻かれているような、得体の知れない恐怖を感じるのだ。
「ジーク、寒くない? 毛布を持ってくるよ」
「……触ら、ないで……」
掠れた声で拒絶するが、身体は依然として鉛のように動かない。私が弱っているから、過敏になっているだけなのか。それとも、この男の被っている『無能の皮』のすぐ下に、私にも気づけないほどの底知れぬ深淵が広がっているのか。疑わしい。でも、証拠がない。……何より今の私は、この男の腕の中から逃げ出す力すらない……っ!
天才のプライドと、本能が告げる違和感。そして、突きつけられた決定的な無力さ。ジークリットは屈辱に唇を噛み締めながら、ただ荒い息を繰り返すしかなかった。
「無理して喋らなくていいよ。僕が全部、やってあげるからね」
葛藤で揺れ動く彼女の金色の瞳を覗き込みながら、フォルビアは悲痛な顔を作って微笑んだ。
疑っている。彼女の鋭い直感が、僕の毒に気付きかけている。
フォルビアの心臓は、バレるかもしれないという焦りではなく、彼女のその『聡明さ』に対する愛おしさで張り裂けそうだった。
それでいいよ、ジーク。いっぱい悩んで、僕を疑って。でも、君のその優秀な頭脳が『まさか』と否定してしまう間に、君の身体はもう、僕なしでは生きられなくなるから。
証拠のない疑念に苛まれる誇り高き婚約者の身体を、青年は優しく、そして逃げ場のない力強さで抱きしめた。公爵邸の春の午後。ジークリットの心に芽生えた小さな疑念の種は、しかし、すでに全身を蝕み始めた毒の前に、あまりにも無力だった。
つづく




