表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/41

第11話 ほどけゆく傲慢


 学園を激しい吹雪が襲った、ある日の放課後。あまりの悪天候に、屋外での鍛錬やサロンの活動は一斉に中止となった。


「……っ」


 女子寮の自室で、ジークリットは自身の掌を見つめ、苛立ちをぶつけるようにシーツを握りしめた。今日は『不調』の日だった。魔法の構築が、まるで素人のように稚拙で不安定になる。鍛錬が中止になったのは幸いだったが、一人の部屋で静寂に包まれると、言いようのない不安と焦燥が胸を締め付ける。

 どこか、落ち着ける場所へ行かないと……。

 そう思った時、彼女の脳裏に真っ先に浮かんだのは、冷たい両親の顔でも、称賛を浴びせてくる取り巻きの顔でもなかった。

 ――湯気を立てる琥珀色の紅茶と、どんな暴言を吐いても変わらずにそこにいる、あの無能な婚約者の、締まりのない笑顔だった。


「……本当に、どうかしているわ」


 自嘲気味に呟きながらも、ジークリットは無意識のうちに厚手のマントを羽織り、温室へと向かっていた。温室の扉を開けると、そこには案の定、使い古された魔導ランプの灯りに照らされて、のんびりと本を読んでいるフォルビアの姿があった。


「あ、ジーク! こんな吹雪の中、どうしたの?」

「……別に。少し、散歩に来ただけよ」

「そっか。でも外は寒かったでしょ。今、温かいお茶を淹れるね」


 ジークリットはいつものように「貴方が淹れるお茶なんて、期待していないわ」と吐き捨てようとしたが、不思議と喉の奥で言葉が詰まった。フォルビアが甲斐甲斐しく立ち働き、自分専用のカップを温める音。彼が発する、野心も力も感じさせない『無害な空気』。それが今の彼女には、何よりも必要なくすりだった。


「……今日は、毒はなし。代わりに、最高級の安眠香と鎮静剤を強めに」


 フォルビアは背中を向けたまま、彼女には聞こえない音量で呟き、特別に調合した液体を一滴落とした。彼にとって、今日のジークリットが『自らの足で』ここへやってきたという事実は、何物にも代えがたい勝利の美酒だった。


「はい、お待たせ。今日は特別に、身体が温まるハーブをブレンドしてみたんだ」

「……ふん。余計なことを。……いただきます」


 ジークリットはカップを受け取ると、いつになく素直にその温もりを両手で包み込んだ。一口、また一口と、毒という名の安らぎが彼女の身体に染み渡っていく。すると、どうしたことだろう。普段なら絶対に他人に見せないはずの弱音が、ふわりと唇から溢れ出した。


「……フォルビア。貴方は、怖くないの?」

「えっ?何が?」

「明日、目が覚めた時に……自分が自分でなくなっているかもしれない、なんて。今の地位も、力も、全てが幻だったかのように消えてしまうかもしれない、なんて……」


 ジークリットは、震える視線をカップの底に落とした。天才として、完璧な未来を夢見る彼女にとって、現在の『不調』は自分の存在理由そのものを揺るがす恐怖だった。しかし、そんな彼女の告白を、フォルビアは「あはは」と場違いなほど優しく笑って受け流した。


「大丈夫だよ。もしジークが何も持っていなくても、僕がマクファーレン家の当主として……あ、いや、僕が君の婚約者として、ずっとそばにいるから。ジークはジークのままでいいんだよ」

「……バカね。貴方がそばにいたところで、何の役にも立たないわ」


 言い返しながらも、ジークリットの瞼は重く垂れ下がってきた。鎮静剤が、彼女の張り詰めた理性を心地よく溶かしていく。彼女は抗うことなく、温室のテーブルに突っ伏すようにして、静かな寝息を立て始めた。


「……ジーク?」


 フォルビアは、ジークリットが眠っているのを確認する。確認ができると先ほどまでの『頼りない青年』の顔を捨て、じっと彼女の寝顔を見つめた。吹雪の音に紛れて、彼はそっと手を伸ばし、彼女の艶やかな橙色の髪に指を通した。


「……甘いなぁ、ジーク。無能だと思っている相手に、こんなに無防備に背中を見せるなんて」


 フォルビアの紫の瞳が、暗い恍惚感に濡れる。彼女は自分でも気づかないうちに、外の世界での緊張に耐えきれなくなり、彼が用意したこのお茶会へ、自ら逃げ込むようになったのだ。


「いいよ、今はそれで。……でも、あと一年もすれば。君は僕がいなければ、もう目を開けることさえ怖くなる。僕の淹れるお茶なしでは、夜を越せなくなるんだ」


 フォルビアは、眠る彼女の耳元に、呪いのような愛を囁いた。そして、テーブルの下で震える自分の右手を、もう一方の手で強く押さえつける。今すぐ彼女をこのまま抱き抱え、地下の隠し部屋へ連れて行きたい。その衝動を、未来の『完璧な収穫』のために必死に抑え込む。


「おやすみ、僕のジークリット」


 窓の外の荒れ狂う吹雪とは対照的に、温室の中には、泥のように甘く、逃げ場のない愛の静寂だけが満ちていた。






 ふわり、と。意識の底から浮かび上がるような感覚と共に、ジークリットはゆっくりと瞼を持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、魔導ランプの仄かな灯りに照らされた温室の天井。そして、自分の肩に掛けられた見慣れない厚手のマントだった。


「……あ」


 ジークリットはガバッと上体を起こした。自分が無能と蔑んでいる婚約者の前で、あろうことか無防備に眠りこけてしまった。その事実に、彼女の頬は屈辱と羞恥で一気に熱くなる。


「あ、おはようジーク。……ううん、もう夜だから『こんばんは』かな?」


 すぐ隣で、フォルビアがいつものように気の抜けた笑みを浮かべていた。彼はテーブルの端で、彼女が眠っている間も静かに本を読んでいたようだ。


「……どれくらい、眠っていたのかしら」

「一時間くらいかな。吹雪も少し落ち着いてきたみたいだよ。……よく眠れた?」

「……ええ、驚くほどにね。貴方の淹れたお茶が、退屈すぎて眠気を誘ったのでしょう」


 ジークリットは乱暴にマントを撥ね除け、立ち上がろうとした。しかしその瞬間、彼女は自分の身体に走った『異変』に気づき、動きを止めた。

 ……軽い。

 ここ数ヶ月、ずっと自分を苦しめていたあの正体不明の気怠さが、嘘のように消えていたのだ。それどころか、魔力回路の隅々まで澄み渡るような、かつてないほどの爽快感。フォルビアが混ぜた鎮静剤の効果によって、一時的に焦燥感が取り除かれた彼女の精神は、皮肉にも『最高のコンディション』を取り戻したかのような錯覚に陥っていた。

 不思議……。あんなに不安だったのに、今はなんだか、何でもできるような気がするわ。あの男の淹れるお茶には、そんな効能でもあったの?

 ジークリットは、無邪気に自分を見上げているフォルビアに、疑念の混じった視線を向けた。


「フォルビア、貴方……。このお茶、何を入れたの?」

「えっ?何って……ハーブと、少しの蜂蜜だけど。ジーク、そんなに怖そうな顔をしないでよ。僕が変なものを入れるわけないじゃないか」


 フォルビアは、心底困ったように眉を下げて首を振った。その瞳には、一欠片の嘘も、企みも感じられない。ジークリットは、鋭い金の瞳で彼をじっと観察したが、そこにあるのは相変わらず『力のない、無害な男』の姿だけだった。

 ……そうね。こんな男に、私の魔力回路を調律するような真似ができるはずがないわ。ただの、偶然。あるいは、この男の呑気さが移ったのかしら。

 ジークリットはフンと鼻を鳴らすと、乱れた服を整え、出口へと歩き出した。しかし、扉に手をかけた時、彼女の背中にフォルビアの柔らかな声が届いた。


「ジーク。……また眠れなくなったら、いつでもおいで。お茶なら、いくらでも淹れるから」


 その言葉は、暗闇に沈む温室の中で、温かい蜜のように彼女の耳に絡みついた。いつもなら「二度と来ないわ」と一蹴するところ。しかし、今の彼女には、その言葉が拒絶できないほど甘美な誘惑に聞こえてしまったのだ。


「……気が向けばね」


 彼女は振り返らずにそう言い残し、温室を後にした。冷たい雪道を歩きながら、ジークリットは自分の鼓動が少しだけ早くなっているのを感じていた。

 不愉快だわ。あんな男に安らぎを覚えるなんて。……でも、あの場所に行けば、あの『不調』を忘れられるのも事実……。卒業までの、ほんの少しの間の利用よ。そう、利用してあげるだけだわ。

 自分に言い聞かせるように、彼女は冷え切った夜の空気を深く吸い込んだ。自分の足で、しっかりと歩いている。力も溢れている。完璧な未来への道は、まだ閉ざされていない。そう信じて疑わない彼女は、まだ気づいていなかった。自分の足で歩いていると思っていたその道が、すでにフォルビアによって完璧に舗装された『鳥籠への回廊』であることに。

 温室に残されたフォルビアは、彼女が去った扉を、暗い瞳で見つめていた。彼はテーブルの上に残された、彼女が飲み干したカップにそっと指を滑らせる。


「うん……それでいいよ、ジーク。今は『偶然』だと思っていればいい。その『偶然』が積み重なって、いつか僕なしでは息もできなくなるまで……」


 フォルビアは、彼女の唇が触れたであろうふちを、恍惚とした表情でなぞった。灯していた魔導ランプの火を消すと、温室は一瞬で濃密な闇に包まれた。闇の中で、青年の口元だけが、狂おしいほどの愛しさを湛えて吊り上がっていた。


つづく

ハーブ(Herb)とは、香りや薬効を持ち、料理の風味付け、薬用、香料、防虫など、生活に役立つ有用な植物の総称といわれています。そしてジークリットちゃんに変なものを入れたくないのも本心です。

フォルビアくんは嘘を言っていません。

嘘は言ってないけど本当のことも言わないヤンデレが好きです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ