第39話 阻止
警察への通報を終えた後、俺は本宅の自室で静かに窓の外を見下ろしていた。
夜明けの白々とした光が、矢絡深家の広大な敷地の芝生を照らし始めている。やがて、遠くから微かに聞こえていたサイレンの音が次第に大きくなり、けたたましい赤色灯の光が高級住宅街の静寂を切り裂きながら丘を登ってきた。通報後、俺は窓の外を見てパトカーが到着したことを知った。
俺は青白く発光するトリプルモニターの電源を落とし、静かに部屋を出た。
重厚な門をくぐった警察官たちは、迷うことなく別宅である新居へと踏み込んでいく。その足取りは、俺が匿名で提供した『ブレーキホース切断の決定的瞬間』という動かぬ証拠によって、確信に満ちていた。
俺は本宅の玄関を出ると、朝の冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。そして、騒ぎの中心となっている正面エントランスを避け、別宅の裏口へと静かに足を向けた。
あらかじめ、スマートフォンでシッターの舞子とは連絡を取り合っていた。彼女には、警察が踏み込んだ際の立ち回りや、子供たちを安全な場所へ遠ざけるよう指示を出してある。
勝手口の薄暗い陰で、カーディガンを羽織った舞子が不安そうな顔で待っていた。俺の姿を認めた彼女は、ホッとしたように小さく息を吐き、手招きをして俺を別宅の中へと導き入れた。
「豊さん……警察の方が、奥様を……」
震える声で囁く舞子の小さな手を、俺は無言で、しかし力強く握り返した。
「大丈夫だ。君と兄さんは、俺が守る。……最後の仕上げを見届けよう」
俺たちは、リビングへと続く薄暗い廊下の物陰に身を潜めた。
エントランスの方からは、すでに修羅場と化した激しい怒声が響き渡っていた。
「離して! 離しなさいよォォッ!」
それは、かつて完璧な令嬢の仮面を被り、この家を優雅に支配していた女のものとは思えない、見苦しい絶叫だった。殺人未遂の容疑を突きつけられ、自身の描いた『悲劇の未亡人』という完璧なシナリオが崩壊した栄子は、パニックに陥り狂乱していた。
俺と舞子が息を潜めて観察していると、追い詰められた栄子の口から、あの言葉が飛び出した。
「教えてあげるわ、最高の真実を!」
血走った目を剥き出しにし、彼女は廊下の隅で呆然と立ち尽くす兄・隆史に向かって、呪いのように叫び始めた。
「あなたが『奇跡の天使』だってもてはやしているあの三つ子! 長男と三男はね、あなたの子じゃないわ! 私が外で遊んでいた、粗暴なチンピラの種よ! あなたはずっと、他人の子供を愛しい愛しいって、バカみたいに崇めていたのよ!」
それは、己のすべてを失うと悟った強欲な女が、最後に放った自暴自棄の猛毒だった。自分をこの地獄へ突き落とした(と彼女が勘違いしている)夫の心を、完膚なきまでに破壊してやろうという、おぞましい悪意。
わめき散らかす栄子の醜悪な姿を遠目で見つめながら、俺は隣で息を呑む舞子の手を、さらに強く握りしめた。彼女の手はひどく冷たかったが、俺たちが共有しているこの温もりだけが、狂気に満ちたこの家における唯一の正気だった。
だが、栄子の放った毒は、兄の純粋すぎる心には全く届かなかった。
「……栄子」
兄は、怒りも絶望も微塵も浮かんでいない、ただひたすらに穏やかで慈愛に満ちた顔で、妻を諭すように語りかけた。
「僕が悪かった。君にこれほどのプレッシャーを与えていたなんて……」
騒ぎを聞きつけてリビングの奥から顔を出した三つ子たち――浩二の血を引く長男と三男、そして自分の血を引く次男を、兄はまとめてその大きな腕で抱きしめた。
「血は繋がっていなくても……初めてこの子たちを抱いた時の温もりは、嘘じゃない。この子たちは僕が引き取るよ」
狂気すら超える、純粋で底なしの無償の愛。
その圧倒的な光の前に、自身の傲慢さと計算がすべて無意味だったことを悟った栄子は、完全に心をへし折られ、うわ言のように呻きながら崩れ落ちた。もはや反抗する気力すら失った彼女は、刑事たちに両脇を抱えられ、パトカーへと連行されていく。ついに栄子は任意同行と言う名の逮捕をされたのだ。
眩しい朝日と赤色灯が交錯するエントランスの扉の向こうへ、彼女が引きずり出されていく。
その直前、パトカーへ押し込まれようとしていた栄子が、ふと振り返った。
俺は、舞子の手を引いて廊下の暗がりからゆっくりと歩み出た。
かつては俺をただの陰気な義弟だと見下していたあの泥棒猫と、俺の視線が、空中で真っ直ぐに交差する。
彼女の目は、すべてを理解したかのように驚愕と絶望に見開かれた。俺が仕掛けた監視の罠に、最初から最後まで滑稽に踊らされていたことに気づいたのだろう。
俺は彼女の悲惨な姿を見下ろし、氷のように冷たい笑みを浮かべると、かつて彼女がこの家にやってきた時に見せたのと同じ、完璧で優雅な会釈をゆっくりと返した。これが最後に栄子と目を合わせての、俺からの無言の挨拶だった。
『3兆分の1の奇跡に溺れた托卵妻の完全犯罪計画は阻止させてもらったよ』
声には出さない。だが、俺の冷酷な番犬としてのメッセージは、間違いなく彼女の脳髄に突き刺さったはずだ。
バタン、と冷たい鉄の扉が閉まる音が響き、パトカーは彼女の野心と虚栄心のすべてを乗せて、矢絡深家から遠ざかっていった。
俺は舞子と静かに微笑み合い、狂気に満ちた夜が明け、真の平穏が訪れようとしているこの白亜の豪邸を、ただ静かに見つめていた。




