第38話 無償の愛
沈黙が、冷え切った自室の空気をさらに重くしていた。
青白いモニターの光に照らされた兄さんは、ソファに深く沈み込んだまま、両手で頭を抱えて動かない 。
無理もない。愛する妻の裏切り、托卵、そして自分への明確な殺意 。普通の人間なら、これほどの絶望を一度に浴びせられれば、精神が完全に崩壊してもおかしくはない。俺は、劇薬を飲ませてしまった罪悪感と、それでも兄を守らなければならないという番犬としての使命感の間で、ただ静かに彼の次の言葉を待っていた。
どれほどの時間が経っただろうか。窓の外の空が、白々とした夜明けの色に染まり始めていた。
「……豊」
不意に、ひび割れたような声が部屋に響いた。
兄さんがゆっくりと顔を上げる。ずっと泣きはらしたその両目は真っ赤に充血し、まぶたは無惨に腫れ上がっていたが、先ほどまでの取り乱した様子は消え去り、そこには奇妙なほどの静けさが宿っていた。
「栄子と……離婚するよ」
絞り出すような、しかしはっきりとした言葉だった。
俺は心の中で、長く重い安堵の息を吐き出した。よかった。俺の冷酷な罠は、無事に兄さんを最悪の呪縛から解き放ったのだ。
「もし、僕がこのまま栄子の罪を揉み消して、あの家で暮らし続けたとしても……僕たちの間に、もう昔のような愛は戻らない。それに、彼女をかばって警察への通報を見送れば、いずれ彼女の犯罪が別の形で露見した時、僕は子供の親権を取れなくなってしまうかもしれない。それだけは、絶対に避けたい」
兄さんの言葉は、驚くほど理路整然としていた。彼の中で、最も守るべき対象が「妻」から「子供」へと完全に切り替わった証拠だった。
「賢明な判断です、兄さん」
俺は深く頷き、ソファの隣に腰を下ろした。
「警察には、俺から通報します。証拠の映像もすべて揃っている。彼女が言い逃れすることは不可能です。有能な弁護士の手配もすぐに進めましょう。……血の繋がった次男の蓮太くんだけは、俺たちでしっかり守り抜きましょう」
俺が労うようにそう口にした、その瞬間だった。
「……え?」
兄さんが、虚を突かれたような顔で俺を見た。
「豊、何を言っているんだ?」
「え……? いや、ですから、蓮太くんの親権を確実に……」
「違うよ」
兄さんは静かに首を横に振った。
「三人ともだ。鳳太も、蓮太も、創太も……三人全員、僕が引き取るんだ」
「な……っ!」
俺は絶句し、弾かれたように立ち上がった。
「正気ですか、兄さん!? 長男と三男は、あの女がどこの誰とも知れない男との間に作った子供なんですよ! 兄さんの血は一滴も入っていない! それどころか、あいつらは成長するにつれて、粗暴な男の血を色濃く受け継ぎ始めているじゃないですか!」
俺は必死に論理を突きつけた。
「今ならまだ間に合います。あの二人は施設に預けるなり、栄子の親族に突き返すなりすればいい。なぜ、自分を騙し、殺そうとした女が他人の男と作った子供を、兄さんが育てなければならないんですか! そんな道理はどこにも……!」
「道理なんてどうでもいいんだよ、豊」
兄さんの穏やかな声が、俺の激昂を静かに遮った。
「鑑定書の冷たい数値なんて、僕にとっては本当に些細なことなんだ。初めてあの子たちを抱き上げた時の、あの柔らかな温もり。小さな手で僕の指を握り返してくれた時の、あの感動。……あの子たちが誰の血を引いていようと、僕がパパとして注いできた愛情は、決して嘘じゃないんだよ」
「兄さん……」
「血の呪縛なんて関係ない。鳳太も創太も、少し乱暴なところはあるけれど、僕が必ず、無償の愛で立派な人間に育て上げてみせる。……あの子たちは三人揃って、僕のパワーの源なんだ。僕の愛する、奇跡の天使なんだよ」
俺は、目の前にいる兄の顔を見て、背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような感覚に陥った。
狂っている。
いや、違う。狂っているのではない。俺のような人間が持つ常識や打算といった次元を、遥かに超越した場所に到達してしまっているのだ。
妻の裏切りも、他人の血という悍ましい真実も、己に向けられた殺意すらも。彼が信じたい「無償の愛」という名の巨大な光は、そのすべての絶望を飲み込み、さらに異常なほど肥大化していた。
俺は、自分自身の足元が揺らぐのを感じた。
俺はずっと、兄さんを「底なしにお人好しで、純粋で、俺が守らなければ壊れてしまう弱い存在」だと思い込んでいた。だからこそ、番犬として手を血に染め、完璧な盤面を作り上げたのだ。
しかし、違った。
兄さんは弱くなどなかった。俺の冷徹な計算など到底及びもつかないほどの、狂気的とも言える深く重い「愛の権化」という名のバケモノだったのだ 。
「……わかり、ました」
俺は、長く深い溜め息を吐き出し、完全に白旗を揚げた 。
この男の底知れぬ愛情には、どんな論理も、どんな残酷な真実も勝てはしない。
「……俺が負けましたよ、兄さん。兄さんの好きにしてください。俺はこれからも、番犬として、兄さんと……三人の甥っ子たちを、全力で守ります」
「ありがとう、豊。お前なら、わかってくれると信じていたよ」
兄さんは、一晩中泣きはらした真っ赤な目で、この世のすべての慈愛を湛えたような、異様なほど穏やかな微笑みを俺に向けた。
俺は、デスクの上に置かれたスマートフォンを手に取った。
窓の外はすでにすっかり夜が明け、眩しい朝日が広大な敷地の芝生を照らし出し始めていた。
『110番ですか』
電話が繋がった無機質な音声案内に向けて、俺は静かに、しかし確かな声で告げた 。
「事件です。新居のガレージで、妻が夫の車のブレーキに細工をし、殺害しようとしました。……ええ、証拠の映像もあります。すぐに来てください」
通話を切り、俺は兄さんと顔を見合わせた。
さあ、幕引きだ。
自身の作り上げた黄金の鳥籠の底で、何も知らずに完全犯罪の成功を夢見ている、あの哀れで強欲な泥棒猫の元へ、地獄の使者を送り込む時間だ 。
俺たちは、パトカーのサイレンを待つため、静かに部屋の扉を開けた。




