第37話 回答前
時刻は午前四時を回ったところだった。
本宅の自室。分厚い遮光カーテンに閉ざされた空間で、三つのモニターが放つ青白い光だけが、部屋の輪郭を無機質に浮かび上がらせている。
ドアをノックする控えめな音が響き、不規則なリズムで開かれた扉の隙間から、兄の隆史が顔を覗かせた。
「豊……こんな朝早くに、どうしたんだい? 栄子も子供たちもまだ寝ている時間だよ」
パジャマの上にカーディガンを羽織った兄は、眠い目をこすりながらも、弟からのメッセージアプリでのただならぬ呼び出しに心配そうな顔を向けていた。人を疑うことを知らない、底抜けにお人好しな兄。その純粋な瞳を見るたび、俺の胸の奥で冷たい痛みが走る。
だが、もう後戻りはできない。今日、すべてを終わらせるのだ。
「兄さん、座ってください。……そして、落ち着いて聞いてほしい」
俺は兄を部屋の中央のソファに促すと、デスクの引き出しから一つの茶封筒を取り出した。それを、兄の目の前にあるローテーブルへと静かに置く。
「なんだい、これは……?」
「開けてみてください」
兄は訝しげに眉をひそめながら、封筒に手を伸ばした。中から引き出された数枚の書類。それは、俺がダミーの名前を使って民間の鑑定機関に依頼し、弾き出された決定的な証拠だった。
『検体【父】と、検体A(長男)の父権肯定確率――0%』
『検体【父】と、検体B(次男)の父権肯定確率――99.99%』
『検体【父】と、検体C(三男)の父権肯定確率――0%』
無機質な文字の羅列を前に、兄の視線がピタリと止まった。瞬きすら忘れ、その意味を脳内で処理しようと必死にもがいているのがわかる。
「ゆ、豊……これは、どういうことだい? 誰の……鑑定書? 長男、次男、三男って……」
震える声で尋ねる兄に、俺は一切の感情を排した声で告げた。
「兄さんと、鳳太、蓮太、創太のDNA鑑定書です。……長男と三男は、兄さんの子供ではありません。栄子が外で別の男と交わり、身籠った他人の子供です」
「な、何を言っているんだ! そんな馬鹿なこと……! 三つ子なんだぞ! 奇跡の天使たちなんだ! 何かの間違いだ、こんな紙切れ……!」
兄は書類をテーブルに叩きつけ、立ち上がって怒鳴った。無理もない。自分が神聖な母体だと崇め奉り、この世の何よりも愛していた妻が、裏で別の男の種を孕み、自分を欺き続けていたなどと、彼の純粋な心がそう簡単に受け入れられるはずがない。
「間違いではありません。相手は江上浩二という、裏社会のチンピラです」
俺はモニターを操作し、俺が建設中のビルから隠し撮りした、栄子と江上浩二の密会映像のキャプチャ画像を画面に映し出した。薄汚れたアパートのベッドの上で、獣のように貪り合う妻の姿。
その鮮明な映像を見た瞬間、兄の顔から一気に血の気が引いていくのがわかった。膝から力が抜け、ドサリとソファに崩れ落ちる。
「うそだ……栄子が、僕を……僕たちを裏切っていたなんて……」
「裏切りはそれだけじゃありません」
俺は兄にトドメを刺すように、自らの手を汚してきた裏工作のすべてを語り始めた。
「彼女が飲んでいたのは美容サプリではなく、妊娠を防ぐためのピルでした。俺はそれを偽のビタミン剤にすり替え、結果的に妊娠に至った。さらに、彼女のバッグにGPSを仕込み、監視カメラで行動のすべてを記録し続けました」
「豊……お前、何を……」
「彼女を追い詰めるためです。俺は兄さんの書斎に、先ほどの鑑定書のコピーと、偽の血を付着させた特殊工具を仕込みました。江上浩二がヤクザに惨殺されたタイミングを見計らい、彼女の頭の中で『夫がすべてを知り、愛人を殺した』という最悪の被害妄想を完成させるために」
妻の裏切り、托卵という悍ましい真実。そして何より、愛する弟が自ら手を下した冷酷で周到な罠の全貌。
あまりにも巨大な絶望と残酷な真実を一度に突きつけられ、兄の精神は限界を迎えた。
「あ……ああ……ああぁっ……!」
兄は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて激しく号泣し始めた。その大きな背中が、悲痛な嗚咽と共に震えている。純粋すぎる愛情が完膚なきまでに踏みにじられ、引き裂かれた男の、魂からの慟哭だった。
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自室に響き渡る兄の泣き声を、俺はただ静かに、冷徹に見下ろしていた。
胸が痛まないと言えば嘘になる。俺が守りたかったのは、この人の純粋な笑顔だったはずだ。だが、あの強欲な泥棒猫を完全に排除し、この矢絡深家に真の平穏を取り戻すためには、この劇薬を飲み干してもらうしかなかった。
「……兄さん、泣いている暇はありません。まだ、終わっていないんです」
俺はキーボードを叩き、中央のメインモニターに昨夜の録画データを呼び出した。
「これを見てください。昨夜の深夜二時、別宅のガレージの映像です」
兄は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ゆっくりとモニターへと顔を向けた。
緑色がかった暗視カメラの映像の中、高級なナイトガウンを羽織り、血走った目をした栄子が映し出される。彼女は手にしたニッパーで、兄が溺愛するジャガー・Eタイプの前輪タイヤの裏側――ブレーキホースに、深く亀裂を入れている。
「……え……?」
兄の泣き声がピタリと止んだ。
「彼女は、兄さんを事故死に見せかけて殺そうとしました。自分の不倫と托卵を隠蔽し、悲劇の未亡人として兄さんの莫大な財産をすべて独り占めするために」
「栄子が……僕を、殺そうと……?」
呆然と呟く兄の目に、再び絶望の闇が広がっていく。愛する妻は、自分を欺いていただけでなく、自分の命すらも奪おうとしていたのだ。
「これは明確な殺人未遂です。そして、決定的な証拠でもあります」
俺はモニターの映像を一時停止させ、兄の前に歩み寄り、その肩を強く掴んだ。
「兄さん、この映像と昨夜のブレーキホースの細工を警察に通報すれば、彼女は確実に逮捕されます。殺人未遂の犯罪者として」
「けいさつ……栄子が、逮捕……」
「そうです。そして、同時にこれは最大のチャンスなんです」
俺の言葉に、兄はすがりつくような目で俺を見上げた。
「日本の法律では、離婚した夫婦の父親が親権を勝ち取るのは非常に難しい。しかし、相手が夫の命を狙った犯罪者となれば話は別です。犯罪者となる母親から、合法的に、そして確実に親権を奪い取ることができる」
俺は兄の瞳の奥を真っ直ぐに射抜いた。
「彼女をこの家から完全に排除し、兄さんの子供を守るための、唯一にして絶対の道です」
部屋の中に、重く息苦しい沈黙が降りた。
モニターの青白い光だけが、兄の蒼白な顔を照らし出している。
「……だが、決めるのは俺ではありません」
俺は兄の肩から手を離し、一歩後ろへと下がった。
「この証拠を持って警察に通報し、栄子を捕まえるかどうか。……この先の判断は、すべて兄さん自身に任せます」
純粋な愛と、裏切りの絶望。そして、愛する我が子を守るための非情な決断。
すべてを白日の下に晒された今、お人好しの兄が最後に何を天秤にかけ、どの道を選ぶのか。
俺は番犬としての役目を一旦終え、ただ静かに、兄の口から紡がれる答えを待ち続けた。窓の外では、夜明けの白々とした光が、残酷な朝の訪れを告げようとしていた。




