第40話 愛の権化たる存在
冷たいコンクリートの匂いが漂う警察署の留置所。
むき出しの便器と、鉄格子で区切られた無機質で極小の空間。最高級のシルクのシーツも、エステティシャンの滑らかな手も、ハリー・ウィンストンのジュエリーもここにはない。あるのは、消毒液とカビの混じったような淀んだ空気だけだ。
私、矢絡深栄子は、薄汚れた貸与品のスウェット姿で、冷たい壁に背中を預けて座り込んでいた。手首には手錠の冷たい感触がまだ残っているかのようだ。
「矢絡深、面会からの差し入れだ」
看守の抑揚のない声と共に、鉄格子の隙間から一つの茶封筒が差し入れられた。
震える手で封を開けると、中から出てきたのは、すでに隆史の署名と実印が押された『離婚届』と、便箋だった。
(隆史から……)
私は息を呑み、血の気のない唇を噛み締めながら、折り畳まれたその便箋をゆっくりと広げた。そこには、私が遺書を捏造するために何度も真似をした隆史のあの几帳面な文字がびっしりと綴られていた。
『愛する栄子へ
君が警察に連れて行かれたあの日の朝、僕は豊に自室へ呼ばれ、彼からすべての真実を見せられた。
君が他の男と逢瀬を重ねていたこと。三つ子のうち、二人が僕の血を引いていないこと。
そして、豊が僕を守るために密かに監視を続け、君が自ら罪を犯すようにあの罠を仕掛けたこと。
すべてを知った時、僕の心は張り裂けそうだった。豊の行き過ぎた行動を止められなかったこと、そして何より、君をあそこまで追い詰めてしまっていた自分の不甲斐なさに、ただ涙が止まらなかった。
でもね、栄子。君は誤解している。血の繋がりなんて、僕にとっては本当に些細なことなんだ。
鳳太も、創太も、そして蓮太も、君が命懸けで産んでくれた僕たちの宝物だ。初めてあの子たちを抱いた時の温もりは、鑑定書の冷たい数値なんかで消えたりはしない。
それなのに、どうして僕が君を警察へ突き出すという選択をしたのか。君は僕を冷酷だと恨んでいるかもしれないね。
でも、それは君のためだったんだ。
もし僕が君の罪を揉み消して、そのままあの家で暮らし続けていたら、君は永遠に恐怖と猜疑心に縛られたままだっただろう。夫の顔色を窺い、嘘をつき続け、いつ暴かれるかと怯え続ける人生は、いずれ君の魂を殺してしまう。
君は、愛を疎んでいたんじゃない。ただ、無条件の愛を真っ直ぐに受け入れるための「土壌」が、君の心の中でまだ育っていなかっただけなんだ。過去の何か辛い記憶が、君に打算と支配しか教えなかったのだろう。
だから、君には変わってほしかった。
一度あの豪邸も、地位も、着飾った仮面もすべてを失い、ゼロになることで、嘘や打算のない、本当の愛を受け入れられる体質に変わってほしかったんだ。
人は、いつからだって変われると僕は信じているから。
あの子たちは今、とても優しく育ち始めているよ。鳳太も創太も、少し乱暴なところはあったけれど、愛情を注げば注ぐほど、穏やかで優しい笑顔を見せてくれるようになった。
血の呪縛なんて、無償の愛でいくらでも塗り替えられるんだと、あの子たちが証明してくれている。
罪を償い、いつか君の心に愛を受け入れる土壌ができた時。
その時には、どうか打算のない、本当の君として生きてほしい。
ずっと愛しているよ。僕の美しい女神様。
隆史より』
便箋を持つ手が、ガタガタと激しく震え、紙がカサカサと乾いた音を立てた。
狂気的なまでに純粋な、底なしの無償の愛。
手紙の最後には、浩二の血を引くはずの長男と三男までもが、隆史のその異常なほどの愛情によって、穏やかで優しい子供へと変わり始めているという事実が綴られていた。血の呪いすらも、この男の愛は完全に塗り替えてしまったというのか。
「ああ……ああぁっ……」
私は喉の奥から、獣のような呻き声を漏らした。
すべては、あの「番犬」である豊の手のひらの上で踊らされていただけだったのだ。私は、自分があの家を完璧に支配していると錯覚していた。だが実際には、最初から最後まで監視され、誘導され、自ら破滅のスイッチを押させられていた。
そして何より、私を最も絶望させたのは、隆史の愛の深さだった。
私は、隆史のこの底知れぬ愛情を、自らの強欲さと被害妄想で手放してしまったのだ。もし、私が打算を捨てて、彼の愛に素直にすがっていれば。長男と三男の血が他人のものであろうと、過去にどんな過ちを犯していようと、愛の権化たる存在はすべてを許し、私を永遠に愛し続けてくれたはずなのだ。
黄金の鳥籠の鍵は、最初から開いていた。私が勝手に外から南京錠をかけ、怯えていただけだった。
自分の手で、永遠に続くはずだった本物の安らぎを、木端微塵に破壊してしまった。
「いや……いやああぁぁぁぁぁっ!」
完全な敗北と、絶対的な絶望。
取り返しのつかない喪失感に精神を完全に破壊された私は、冷たいコンクリートの床に突っ伏し、鉄格子の中でただ狂ったように、喉が裂けるまで泣き叫び続けることしかできなかった。
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それから、幾度かの季節が巡った。
神奈川の高台に建つ、白亜の豪邸。
高く澄み切った青空から、眩しい朝日が広大な庭の芝生を照らし出している。
「パパ! こっちだよ、早く早く!」
「こらこら、走ると転ぶぞ。ほら、三人とも一緒に遊ぼう」
美しく手入れされた庭の中央で、隆史が三つ子たちに囲まれて満面の笑顔を浮かべていた。
血の繋がりなど、もはや誰も気にしていない。裏社会の男の血を引く長男の鳳太と三男の創太も、かつての獲物を睨むような野蛮な目つきはすっかり鳴りを潜めていた。今では、隆史の血を引く次男の蓮太と同じような、温厚で争い事を好まない、心優しい少年の顔つきになっている。
隆史の狂気的なまでに行き過ぎた無償の愛は、暴力という遺伝子の呪縛すらも完全に洗い流し、三人の天使たちを本当の意味での「矢絡深家の跡取り」へと昇華させたのだ。
「豊さん。お茶が入りましたよ」
本宅のテラス席で、俺は傍らに立つ舞子から、湯気を立てるマイセンのティーカップを受け取った。
「ありがとう、舞子さん。……今日も、騒がしくて良い日だ」
化粧っ気のない、しかしこの世の誰よりも温かく純粋な笑顔を浮かべる舞子の肩を、俺はそっと抱き寄せた。彼女は少しはにかみながら俺の肩に身を預け、庭で遊ぶ隆史と三つ子たちを愛おしそうに見守っている。もはや彼女はただのシッターではなく、この家にとって欠かせない本当の「母親」のような存在となっていた。
この家に巣食った強欲な泥棒猫は、完全に排除された。
愚かな彼女は最後まで気づかなかったのだ。彼女が自らの手で切断してしまったのは、車のブレーキなどではない。彼女をこの黄金の鳥籠に繋ぎ止めていた、唯一の命綱だったということに。
ブレーキを完全に失い、地獄の底へと真っ逆さまに墜落していくのは、他でもない彼女自身だ。一度切断された命綱は二度と元には戻らず、彼女の転落人生はもはや誰にも止めることはできない。
血の繋がらない子供たちを狂信的に愛する兄と、それを守るために手を汚した番犬。いびつな形であることは間違いない。だが、ここには確かに、嘘や打算の一切ない、真の平穏と愛が訪れている。
俺は極上のダージリンティーを口に含み、青く澄み渡る空を見上げながら、長い戦いを終えた番犬としての休息を、静かに噛み締めていた。
第1章 完
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