第33話 予測する変数
数日後の深夜。
本宅の自室は、分厚い遮光カーテンによって外の光が完全に遮断され、青白く発光するトリプルモニターの光だけが、部屋と俺の顔を無機質に照らし出していた。
画面の一つには、俺が独自に構築した暗号化通信のターミナルが黒い背景に緑色の文字を滝のように流し続けている。そして中央の最も大きなメインモニターには、あの江上浩二が住む、都内の薄汚れたアパートの一室が、超小型の望遠・暗視カメラからのライブ映像として鮮明に映し出されていた。
建設中のビルの隙間から、窓ガラス越しに部屋の内部を捉えるその映像は、俺の電子工作スキルと最新のノイズ除去プログラミングによって、深夜のわずかな光量でも被写体の表情のシワ一つまで読み取れるほどの超高画質を維持している。
画面の中の浩二は、安物のベッドに寝転がりながらスマートフォンを弄り、時折忌々しそうに舌打ちをしてはタバコの煙を吐き出していた。あの泥棒猫が金と引き換えに貪っている、底辺のオスの惨めな日常風景だ。
俺が冷めたコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばした、その時だった。
モニターの中で、突如として異変が起きた。
浩二の部屋の薄い木製のドアが、外からの強烈な蹴りによって蝶番ごと吹き飛ばされたのだ。
「……ん?」
俺はマグカップを置き、モニターに顔を近づけた。
画面越しに、裏社会のヤクザと見られるガタイの良い男たちが数人、土足のまま浩二の部屋に押し入っていく一部始終が展開される。男たちに囲まれた浩二は、最初こそ虚勢を張って凄んでいたが、すぐに腹に重い蹴りを入れられ、汚れた畳の上へと無様にうずくまった。手に持っていたスマホは床へ叩きつけられ、粉々に粉砕された。
カメラは音声を拾っていないが、男たちの激しい身振りや、浩二の顔に浮かぶ極限の恐怖から、それが大きなトラブルによる深刻な制裁であることは容易に読み取れた。
そして、決定的な瞬間が訪れる。
リーダー格と見られるヤクザの男が、懐から鈍く光る一本の刃物を取り出した。それは、ただのナイフではない。刃の一部が波打ったような、獲物の肉を確実に抉り取るための特殊な形状をしたサバイバルナイフだった。
男は躊躇する素振りすら見せず、うずくまる浩二の胸や首元に向かって、その波打つ刃を何度も、何度も深く突き立てた。
画面の中で、黒黒とした大量の液体が壁や畳に撒き散らされていく。浩二の身体が痙攣し、やがて完全に動かなくなるまでの数分間。
俺の自室のサーバーには、その凄惨な殺人現場が超高画質のデータとして、一コマの欠落もなく完璧に録画されていく。
普通の人間なら、画面の向こう側の凄惨な光景に悲鳴を上げ、すぐに警察に通報するだろう。
だが、モニターの光を浴びる俺の表情は、一ミリたりとも変わらなかった。心拍数すら一定を保っている。
「……なるほど。ゴミが勝手に掃除されたか」俺は再びマグカップを手に取り、完全に冷え切ったコーヒーを静かにすすった。
浩二が死んだことに対する同情など微塵もない。俺のプログラマーとしての脳は、この『予測不能な変数』を、いかにして栄子を破滅させるためのシステムに組み込むか、その演算を瞬時に開始していた。
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俺はメインモニターで録画データのエンコードを走らせながら、サブモニターで兄・隆史の今週のスケジュール帳へアクセスした。
「……完璧だ」
スケジュールを確認した俺の口から、思わず感嘆の声が漏れた。
偶然にも、隆史はこの日、「都内のクライアントと重要な会食があり、そのままホテルに泊まる」という予定になっていた。つまり、深夜のこの時間帯、兄さんは自宅を離れており、明確なアリバイの空白地帯の真っ只中にいるのだ。
俺の脳内で、バラバラだったパズルのピースが恐ろしいほどの精度で組み合わさり、栄子を完全な破滅へと導くシナリオが完成していく。
「兄さんが、たまたま都内に宿泊していた夜に、江上浩二が殺された。……この事実と、俺が書斎に仕込む『三つ子のDNA鑑定書』、そしてシャネルのバッグに潜り込ませた『GPSタグ』の存在。それらすべてが一本の線で繋がった時、あの女はどう考える?」
答えは明白だ。
あの傲慢で、自分の保身しか頭にない被害妄想の強い女は、すべての証拠を握った夫が、復讐のために浮気相手を惨殺したのだと、確実に勘違いする。
俺が兄さんの手を汚させるわけがない。だが、栄子の頭の中だけで兄さんを『猟奇的な殺人鬼』に仕立て上げることは可能だ。
「この映像は、あの泥棒猫を狂わせ、極限の恐怖の中で完全に自滅させるための『最高のカード』になる」俺は冷たい笑みを浮かべ、ヤクザによる浩二殺害の映像データを、何重もの強固な暗号化キーで厳重にロックし、自室のローカルサーバーの最深部へと隠し持った。
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俺は、乾いた喉を潤すためにキッチンの暗がりへと足を踏み入れた。
冷水機からグラスに水を注ごうとした瞬間、不意に、自分の指先が微かに震えていることに気がついた。
(……なんだ?)
グラスを持つ手がひどく冷たい。
俺は先ほどまで、完璧な計算のもとに冷徹に動いていたはずだ。ヤクザの殺人現場の映像を見た直後でも、俺はゴミが消えたとしか思わなかった。
だが、一人になって張り詰めた糸がわずかに緩んだ瞬間、モニター越しに見た「あるもの」が、脳裏にこびりついて離れなくなった。
それは、人が殺される瞬間そのものではない。
刃物を振り下ろしていた、あの殺人者の『表情』だ。
一切の感情が抜け落ち、他者の命をただの肉の塊として処理する、人間の形をしたバケモノの目。俺は今日、初めて、他者の命を奪う人間の本性を、この目で見てしまったのだ。
(栄子も……あの女も、追い詰められれば、あいつと同じ目をするのだろうか)
保身のためなら、愛する兄さんをも殺しかねないあの泥棒猫。あのヤクザの瞳と、栄子の本性が重なり合い、俺の心の奥底に理屈ではない本能的な動揺が広がっていた。
「……豊さん?」
不意に背後から声をかけられ、俺はビクッと肩を跳ね上がらせて振り返った。
そこには、三つ子の夜泣きの対応で起きてきたのだろう、カーディガンを羽織ったベビーシッターの舞子が立っていた。
「驚かせてごめんなさい。奥様に頼まれておビールを拝借に来たんですが……豊さん、ひどくお顔の色が悪いですよ。それに、手が震えて……」
舞子は、暗がりの中でも俺の異変にすぐに気がついた。凄惨な映像を見たばかりの、冷酷な「番犬」としての顔の裏側に隠された、人間としての微かな怯えを、彼女だけが見抜いていた。
「……いや、少し、仕事で厄介なバグを見つけてしまって。冷えただけです」
俺が強がって視線を逸らすと、舞子は何も言わず、俺の持つ冷たいグラスをそっと取り上げた。そして、代わりに自身の両手で、俺の冷え切った震える手を、温かく、柔らかく包み込んでくれた。
「豊さんは、いつもご家族のために、お一人で難しいお仕事を抱え込んでいらっしゃるんですね。……私でよければ、いつでもお話を聞きますから。温かいハーブティーでも淹れましょうか?」
純粋で、底抜けの優しさを湛えた彼女の瞳。
俺は、その温もりに触れた瞬間、自分が抱えていた動揺が、嘘のようにスッと消え去っていくのを感じた。
(そうだ。俺が恐れる必要なんてない)
俺がこの手をどれだけ汚そうと、どれだけ非情な罠を張り巡らそうと、すべてはこの優しく温かい彼女と、純粋な兄さんを守るためなのだ。
俺は、舞子の小さな手を握り返し、静かに目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、最後に栄子がすべてを失い、殺人者と同じ獣の目をして破滅していく姿だ。
(君と兄さんを守るためなら、俺は喜んで悪魔になる)キッチンの静寂の中で、俺は己の魂を完全に漆黒に染め上げる、強固でエモーショナルな決意を固めていた。




