第32話 広げる蜘蛛の巣
俺は、あの傲慢な泥棒猫を完全に破滅させるための、緻密な罠の構築に取り掛かった。
直接手を下して処分することなど造作もないが、それでは俺が犯罪者になってしまう。何より、人を疑うことを知らない兄さんの心が、愛する妻の死や逮捕によって耐えきれずに壊れてしまうだろう。だからこそ、彼女自身の強欲さと恐怖を利用して、彼女自らの手で首を絞めさせる必要がある。
まずは、彼女の行動を完璧に把握することだ。
俺は、栄子が外出時に必ず持ち歩くお気に入りのシャネルのバッグに目をつけた。ある日、雑用で別宅を訪れた際、リビングのソファに無防備に置かれていたその黒いマトラッセを調べた時、内ポケットの裏地の縫い目が、微かにほつれているのを見つけたのだ。
俺はあらかじめ用意しておいた、五百円玉ほどの大きさの白い忘れ物防止タグ(ストーカー防止機能無効化済)を、そのほつれの奥深くへと指でギュッと押し込んだ。わざと縫い合わせるような真似はしない。いずれ彼女自身の手でこのタグを見つけさせ、自分はずっと監視されていたのだという極限の恐怖と被害妄想を抱かせるための、重要な小道具なのだから。
休日の午後。
俺は本宅の自室の窓から、完璧なメイクと華やかなドレスに身を包んだ栄子が敷地から出て行くのを確認した。
青白く光るトリプルモニターの前に座り、キーボードを叩き、栄子のバッグに仕込んだGPSタグの現在位置をマップ上に表示させる。
画面の中で点滅する赤い光は、高級エステサロンやブランドショップが立ち並ぶ都内の繁華街を通り過ぎ、どんどん外れへと向かっていた。やがて、その光は治安の悪いスラム街のようなエリアにある、古びた雑居ビルでピタリと停止した。
俺は淹れたてのコーヒーを口に運び、冷ややかに画面を見つめた。
「……高級エステが、こんな薄汚れた雑居ビルにあるわけがない。さあ、オタクの本当の顔を見せてもらおうか」
モニターの光に照らされた俺の顔には、獲物を追い詰める番犬としての冷徹な笑みが浮かんでいた。
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GPSの座標だけでは不十分だ。俺は自身の足を使って、栄子の目的地を正確に特定することにした。
都内の外れにあるその場所は、剥がれかけた塗装とカビの匂いが漂う、吹き溜まりのような薄汚れたアパートだった。エレベーターさえない、底辺の人間が住むような場所だ。
俺はすぐさま自室に戻り、プログラマーとしてのスキルをフル活用して、その四階の部屋の住人の素性を洗い出した。表のネット情報から裏社会のデータベースまで、あらゆるネットワークにハッキングまがいの手法で潜り込み、情報の断片をかき集める。
すぐに一人の男の名前が浮かび上がった。江上浩二。二十八歳。
過去の逮捕歴や交友関係のデータをスクレイピングしていくと、彼が粗暴で金に汚く、女を消耗品のようにしか扱わない下劣なチンピラであることが判明した。
(なるほど。金と地位は兄さんから搾取し、肉体の欲望はこういう底辺のオスで満たしていたというわけか。どこまでも吐き気がする女だ)
俺は湧き上がる怒りを冷たい理性で押さえ込み、完璧な証拠を掴むための次の行動に移った。
浩二のアパートの向かいには、都合の良いことに建設中の無機質な雑居ビルがあった。週末の深夜、俺は防犯カメラの死角を突いてそのビルに侵入した。
手には、自身の電子工作スキルで組み上げた特製の機材がある。俺は、浩二の部屋の窓を真正面から捉える絶好のポイントに、超小型の望遠・暗視カメラを仕掛けた。電源はモバイルバッテリーを直列で繋いで長期間の連続稼働を可能にし、映像データは暗号化して俺のサーバーへリアルタイムで送信されるように細工を施した。
数日後。自室のモニターに、栄子と浩二の密会映像が鮮明に映し出された。
スプリングの軋む安いベッドの上で、獣のように貪り合う二人の姿。兄さんを裏切る、これ以上ない決定的な証拠だ。
だが、俺はすぐには動かない。この映像を兄さんに突きつければ、栄子を家から追い出すことはできるだろう。しかし、それでは兄さんの純粋な心が耐えきれず、完全に壊れてしまう。
「ただ浮気を暴くだけでは生ぬるい。兄さんの心が壊れないよう、あの女自身に自滅させなければ」
俺は密会映像の隣の画面に、マインドマップのツールを立ち上げた。栄子、兄さん、江上浩二、そして三つ子たち。それぞれの相関図を描き出し、栄子の心理状態を徹底的にプロファイリングしていく。
俺の頭脳は、プログラマーとしての論理的思考――「If〜Then(もし〜なら、こう動く)」という条件分岐で、彼女の未来の行動を演算し始めた。
If、栄子が自身の不倫と托卵の証拠を握られていると気づいたなら。
Then(その時)、彼女はどう動くか?
逃げるか? いや、あの強欲な女が、自ら計算尽くで手に入れた裕福な生活と莫大な財産を手放すはずがない。
兄さんに泣きついて許しを請うか? いや、彼女の肥大化したプライドと傲慢さがそれを許さないだろう。
導き出される答えは一つ。
「栄子は絶対に逃げない。自身の完璧な人生を守り抜くため、保身のために、必ず自分を脅かす『障害』を排除しようとするはずだ」
障害とはすなわち、秘密を知る人間であり、自分を愛しすぎているが故に、愛情が反転した際に最大の脅威となる『兄さん』だ。
モニターに映るフローチャートの終着点に、俺は『夫の殺害計画』という最悪の予測を打ち込んだ。
彼女は保身のために、必ず兄さんを殺そうとする。俺は、その殺人未遂すらも事前に計算に組み込み、完璧な反撃のシナリオを用意しなければならない。
兄さんの身体も心も傷つけず、あの女だけを完全に地獄へ突き落とすための、血を流さない処刑。
俺はキーボードを叩く手を止め、密会映像の中で醜く乱れた顔を見せる栄子を、氷のように冷たい視線で見据えた。




