第31話 悪意の累積
三つ子が4歳になりたての時だった。
秋の気配が深まり始めた夜、子供たちを寝かしつけた舞子が、ひどく青ざめた顔で俺の部屋を訪ねてきた。
「豊さん……。お話ししなければならないことがあります」
彼女の声は微かに震えていた。俺はただ事ではないと察し、彼女を部屋に招き入れた。
「奥様のことです。……奥様には、ご主人以外の、その、言いにくいのですが、男性の影があります」
舞子のその真っ直ぐな言葉に、俺の脳内でいくつもの不審なピースが音を立てて繋がり始めた。
「奥様がジムやエステから帰られた時、脱ぎ捨てられたお召し物や髪から、ひどく安っぽいタバコと、きつい香水が混ざったような匂いがすることがあるんです。それに……」
舞子は自身の胸元を強く握りしめ、ためらいがちに言葉を紡いだ。
「一番恐ろしいのは、鳳太くんと創太くんです。あの子たちが時折見せる、獲物を睨みつけるような鋭い目つきや、乱暴な振る舞い。あれは、奥様でも、温厚な隆史さんでもない……『見知らぬ誰か』に似ているんです。三つ子ちゃんたちが、少し怪しいとしか思えなくて……」
一番近くで子供たちに愛情を注ぎ、細かな変化を見逃さない彼女だからこそ辿り着いた、おぞましい真実。
托卵。
あの泥棒猫は、外で得体の知れないチンピラと交わり、その種を兄の子供としてこの家に産み落としていたのかもしれないのだ。俺の仕掛けたピルのすり替えによって妊娠したとはいえ、まさか別の男の子供を身籠っていた可能性があるという、悪魔のような所業をやってのけるとは。
俺の中で、かつてないほどの激しい怒りと嫌悪感がマグマのように沸き上がった。
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「……ありがとう、舞子さん。よく話してくれた」
俺は湧き上がる怒りを冷徹な理性で押さえ込み、一つの決断を下した。
「事実を確かめるために、こっそり三つ子の粘膜を採取して、DNA鑑定を行う」
俺がそう告げると、舞子はハッと息を呑み、そして強い決意を込めた目で俺を見つめ返した。
「私も手伝います。毎日歯磨きをさせている私なら、怪しまれずにあの子たちの口から粘膜を採取できますから……!」
だが、俺は彼女の肩を掴み、その申し出をきっぱりと拒絶した。
「駄目だ。君は一切関わるな」
「でも……!」
「もし万が一、この事が兄さんやあの女にバレた時、君が共犯者になれば、立場が絶対に不利になる。俺は、君をこの泥沼に巻き込みたくないんだ」
俺の言葉に、舞子は瞳を潤ませた。
「俺は、泥をすべて自分でかぶるつもりでいる。愛する君と、そして兄さんを守るためなら、どんな手でも使う」 俺は彼女をきつく抱きしめ、絶対に彼女を不幸にはしないと、男としての覚悟を見せた 。
数日後、俺は栄子が外出している隙を突き、舞子から引き継いだ三つ子をあやす途中に口内粘膜を採取し、兄のヘアブラシから毛髪を採取し、ダミーの名前を使って民間の鑑定機関へと送り出した。
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数週間後。
私書箱へ届いた封筒を自室に持ち帰り、俺は震える指先でその鑑定報告書を開いた。モニターの青白い光の下で、無機質な文字列が俺の網膜を刺す。
『検体【父】と、検体A(長男)の父権肯定確率:0%』
『検体【父】と、検体B(次男)の父権肯定確率:99.99%』
『検体【父】と、検体C(三男)の父権肯定確率:0%』
「……っ、なんだ、これは」
俺の喉の奥から、乾いた、それでいて激しい拒絶を含んだ音が漏れた。
プログラマーとして、俺は常に論理と確率の支配する世界で生きてきた。バグには必ず原因があり、例外には必ず条件がある。だが、目の前のこの「結果」は、生物学的バグなどという言葉では到底片付けられない、悍ましい特異点を示していた。
俺は即座にキーボードを叩き、検索して出てきた数値を数式へと叩き込む。
まず、自然妊娠で三つ子が生まれる確率。およそ $1.0 \times 10^{-4}$ (0.01%)。
そして、複数の男の精子が同時に受精する「異父過排卵受精」が起こる確率。およそ $1.0 \times 10^{-6}$ (0.0001%)以下。
この二つの独立した事象が、たった一回の分娩という「スロット」の中で同時に当選する確率。
計算するまでもない。
$1.0 \times 10^{-10}$ (0.00000001%)以下の領域。
それはもはや「奇跡」などという甘美な言葉で呼べるものではない。システムを根底から破壊する、天文学的な「悪意の累積」だ。
「……100億分の1、だと?」
俺は吐き気を催し、マウスを握る手に力を込めた。
兄貴と寝たその直後、又は直前に、どこの誰ともわからない男と体を重ねていなければ、こんな特異なケースは起こらない。
あの女の中ではピルユーザーが妊娠したとして、さらに高い確率を思い描いているだろう。
兄貴の純粋な愛という「聖域」の中に、異物のパケットを無理やりねじ込み、あまつさえそのバグを「天使」という偽のヘッダーでカモフラージュして兄貴に育てさせていたのか。
長男(謎男)――次男(隆史)――三男(謎男)。
兄貴の血が、謎男の血にサンドイッチのように挟まれている。
その歪な構造を「ほうれんそう」などという独自の愛情表現で、涙を流して喜ぶ兄さんの姿が脳裏に浮かび、俺の理性が真っ赤な警告音を鳴らし始めた。
「……これじゃあまるでポパイサンドになっちゃうじゃないか! あの女ブルートめ。絶対に、許さない」
俺は印刷した鑑定書を握りしめ、怒りのままに自室を飛び出した。
もはや、この現実は論理的な処理の範疇を超えている。
この世に存在するはずのない「100億分の1の呪い」を我が家に持ち込んだあの女を、一秒でも早く、この盤面からデリートしてやらなければならない。
足早に新居の廊下を進み、家の扉に手をかけた、その時だった。
僅かに開いた扉の隙間から、異様な光景が目に飛び込んできた。
「ああ……僕の可愛い天使たち。パパのパワーの源だ。愛しているよ、世界で一番……」
兄の隆史が、三つ子たちをまとめて抱きしめ、その頭に何度も何度も熱烈なキスを落としていた。ソファーには、血の繋がらない長男と三男が退屈そうに無垢な表情を浮かべているが、兄の目は完全に彼らを自身の至宝として疑っていなかった。
その顔を見て、俺は背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような感覚に陥り、思わず足を止めた。
兄の目は、完全に常軌を逸していた。
純粋すぎる愛情が極限まで肥大化し、もはや狂信者のような恍惚とした光を放っている。もし他人が少しでも子供たちを傷つけようものなら、一切の躊躇なく相手の首を絞めかねない、重く、異常なまでの執着心。
(……駄目だ)
俺はドアノブからゆっくりと手を離した。
もし今、俺がこの鑑定書を突きつければどうなるか。
人を疑うことを知らない兄の心が、完膚なきまでにへし折られ、精神が崩壊してしまうかもしれない。いや、それ以上に恐ろしいのは、この狂気じみた愛情が反転し、兄自身が制御不能な怪物と化してしまうことだ。
愛する兄を、自らの手を汚す殺人鬼になどさせるわけにはいかない。
それに、ここ日本で離婚した夫婦は、父親が親権を取れる確率は1割と、ものすごくハードルが高い。兄は自分の子である次男だけは手放したくないはずだ。
俺は冷や汗を拭い、音を立てずに廊下を引き返した。
戦略を変更する。俺が直接手を下すのではない。あの強欲な女自身に、自分の足元が完全に崩れ去っていることを悟らせ、極限の恐怖と被害妄想の中で、自ら破滅の道を選ばせるのだ。
手始めに、このDNA鑑定書を、兄の書斎の「あの女が見つけやすい場所」に仕込んでおこう。
俺の口元に、冷酷な番犬としての笑みが浮かんだ。
完璧に偽装された鳥籠の中で、血を流さずに標的を真綿で絞め殺す。俺の真の狩りが、ここから静かに幕を開けたのだった。




