第30話 渦中のぬくもり
兄・隆史が狂喜乱舞したあの日から、矢絡深家はさらに歪な鳥籠へと変貌した。
奇跡の三つ子。長男の鳳太、次男の蓮太、三男の創太。三つの命が誕生したことで、兄は妻である栄子を「奇跡を産んだ神聖な母体」として完全に神格化し、その執着は常軌を逸したレベルへと到達していた。
だが、当の栄子本人はどうだ。彼女は三つの命を産み落とした直後から、泥臭い育児など完全に放棄していた。崩れたプロポーションを取り戻すためのパーソナルトレーニング、そして肌を磨き上げる高級エステ。彼女は毎日派手なドレスに身を包み、己の虚栄心を満たすためだけに遊び歩いている。
そんな育児放棄状態の栄子に代わり、三つ子の世話を一身に引き受けるために雇われたのが、ベビーシッターの骨蔵舞子だった。
舞子は栄子より年上だったが、化粧っ気がなく、地味で真面目な女性だった。高級ブランドで身を固めるあの強欲な泥棒猫とは対極にある、素朴な佇まい。しかし、彼女の子供たちに向ける眼差しは、実の母親である栄子よりもはるかに温かく、献身的な愛情に満ちていた。
俺は本宅の自室の窓から、この一家のいびつな日常を静かに観察し続けていた。あの女がいつ決定的な尻尾を出すかを見極める、番犬としての任務を全うするために。
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ある日の午後。
本宅での仕事を終え、兄の書斎に書類を届けるために別宅へ足を踏み入れた俺は、大理石のエントランスに響き渡る甲高い怒声を聞いた。
「ちょっと、舞子さん! 泣き声がうるさいわよ! せっかく出かけるのに、気分が台無しじゃないの!」
見ると、シャネルのバッグを片手に完璧なメイクを施した栄子が、ヒステリックに声を荒げていた。リビングの奥では、自我が芽生え始めた長男の鳳太と三男の創太が激しく泣き喚き、硬いおもちゃを投げ合っている。
舞子は床に散らばったブロックを避けながら、必死に子供たちをなだめ、栄子に向かって深く頭を下げていた。
「申し訳ありません、奥様……! すぐにあやしますから……」
「高いお給料を払っているんだから、これくらいの仕事は完璧にこなしなさいよ。ほんと、使えないわね。ああ、イライラする」
栄子は忌々しそうに舌打ちをすると、泣き叫ぶ我が子に一瞥もくれることなく背を向けた。むせ返るような強い香水の匂いを撒き散らしながら、彼女は迎えのタクシーへと乗り込んでいった。行き先は「ジム」だと言っていたが、その派手な装いを見る限り、到底汗を流す場所へ向かうとは思えない。
エントランスの扉が閉まり、静寂が戻ったのを確認してから、俺はゆっくりとリビングへと歩み寄った。
舞子は散らかったおもちゃを拾い集め、暴れる鳳太と創太を両腕で抱え込みながら、小さくため息をついていた。その肩は日々の疲労で微かに震えている。
俺はキッチンへ向かい、温かい紅茶を二つのカップに注いだ。
「……お疲れ様です。少し、休みませんか」
背後から声をかけられ、舞子はビクッと肩を跳ね上がらせた。
「あ、豊さん……! す、すみません、お見苦しいところを……」
「気にしなくていいですよ。あの女の理不尽は、今に始まったことじゃない。温かいうちにどうぞ」
俺が湯気の立つカップをローテーブルに置くと、舞子は恐縮しきった様子で何度も頭を下げた。
「いただきます……。でも、奥様もきっと、三つ子ちゃんの子育てでストレスが溜まっていらっしゃるんでしょうね。私がもっと、うまく立ち回らなければいけないのに……」
「君が謝る必要はない。むしろ、俺から礼を言いたいくらいです。あの母親の代わりに、兄さんの子供たちに愛情を注いでくれて、本当に感謝しています」
俺が静かにそう告げると、舞子は目を丸くし、やがて化粧っ気のない顔を微かに赤らめて、はにかむように微笑んだ。
「……ありがとうございます。でも、私はこの子たちが本当に可愛いんです。大変なこともありますけど、寝顔を見ると疲れなんて吹き飛んでしまって」
舞子のその笑顔には、栄子のような計算や打算は一切なかった。高級な香水の匂いなどしない、石鹸の柔らかな香りと、純粋で底抜けの優しさだけがあった。
氷のように冷え切っていた俺の胸の奥に、小さな温かい灯りがともったような気がした。
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その日を境に、俺と舞子の距離は少しずつ、しかし確実に縮まっていった。
俺は在宅仕事の合間を縫っては、舞子が三つ子を遊ばせている庭のシンボルツリーの木陰や、誰もいないリビングの片隅へと足を運ぶようになった。
最初は、栄子の動向を探るための情報収集のつもりだった。最も近くで一家を見ているシッターから、あの女のボロを引き出そうという冷徹な打算があったのだ。
しかし、舞子と他愛のない言葉を交わす時間は、いつしか俺にとって、何事にも代えがたい安らぎへと変わっていった。
「豊さん、見てください。蓮太くんが、こんなに上手にミニカーを並べられるようになったんですよ」
「本当だ。器用だな。……君が根気よく付き合ってくれているからだろう」
「ふふっ、そんなことありません。蓮太くんは本当に優しくて、賢い子なんですよ」
純白のパラソルの下、無邪気に笑う舞子の横顔を見つめながら、俺は自分が「番犬」としての警戒心を完全に解いていることに気がついていた。
兄の財産を食い物にしようとする女狐と、それに気づかず狂信的な愛を注ぐ愚直な兄。この矢絡深家は、外から見れば誰もが羨む金持ちの家庭だが、その内実は嘘と狂気にまみれた地獄だ。
俺は常に気を張り詰め、ハイエナから兄を守るために、冷徹な機械として己の感情を殺し続けてきた。
だが、舞子だけは違った。
彼女の傍にいる時だけは、俺は「矢絡深豊」というただの一人の男に戻ることができた。彼女が淹れてくれるコーヒーの味は、出張シェフが作るどんな高級な料理よりも、俺の乾いた心を深く潤してくれた。
ある夕暮れ時。
三つ子たちが昼寝をしている静かな和室で、俺は隣で洗濯物を畳んでいる舞子の小さな手を、そっと握りしめた。水仕事で少し荒れたその手は、ひどく温かかった。
舞子は驚いたように顔を上げ、俺の目を見つめ返した。彼女は手を振り払うことはしなかった。
「……豊さん」
「舞子さん。俺は……」
言葉は多くは必要なかった。俺の漆黒の瞳に宿る熱と、彼女の潤んだ瞳が交差する。
俺たちは、このいびつな鳥籠の片隅で、誰にも知られることなく静かに愛を育み始めた。俺の肩にそっと頭を乗せる彼女の体温を感じながら、俺はこのささやかな幸福が長く続くことを祈っていた。
だが、一番近くで子供たちを見つめていた彼女の純粋で鋭い「観察眼」が、やがてあの強欲な泥棒猫の決定的な嘘を暴き出し、俺たちを凄惨な修羅の道へと引きずり込むことになろうとは、まだ知る由もなかったのだ。




