第29話 注ぐ絶望
しかし、私の裏工作がもたらした「奇跡」は、それだけでは終わらなかった。
数日後。本宅の広大なダイニングルームで、週に一度の親族揃っての食事会が開かれた。
部屋の空気は、これまでとは比べ物にならないほどの熱気と祝祭感に包まれていた。上座には好々爺とした父が満面の笑みで座り、母も上機嫌で出張シェフに細かな指示を出している。
そして、その中心にいるのは、少しふっくらとしたマタニティドレスに身を包んだ栄子と、彼女の隣で片時も離れようとしない兄だった。
「母さん、父さん。そして豊。今日は、二人にさらなる報告があるんだ」
兄は、前菜のカルパッチョが運ばれてきたタイミングで、もったいぶるように立ち上がった。その手には、黒いファイルに大切に収められた数枚のエコー写真が握られている。
「実は……先日、栄子と一緒に専門のクリニックへ行ってきたんだ。そこで、信じられないことがわかった」
兄は深く息を吸い込み、声を震わせて宣言した。
「三つ子だったんだ! 栄子のお腹の中には、三人の天使がいるんだよ!」
「まあっ……!」
「おお、なんと! 矢絡深家に一度に三人の跡取りが……!」
両親は椅子から立ち上がり、手を取り合って狂喜乱舞した。ダイニングルームは、まるで宝くじの特等にでも当たったかのような、常軌を逸した歓声に包まれた。
「栄子さん、本当によくやってくれたわ! あなたは矢絡深家の誇りよ!」
「ありがとう、栄子さん。欲しいものはなんでも言いなさい!」
賞賛の嵐を一身に浴びながら、栄子は両手で頬を覆い、「もったいないお言葉ですわ。私も、胸がいっぱいで……」と、恥じらうように俯いてみせた。
どこからどう見ても、奇跡を授かった、この世で最も幸福な妻であり母の姿だ。
だが、私にははっきりと見えていた。
彼女が両手で顔を覆う一瞬、その口元が引きつり、瞳の奥にどす黒い絶望と恐怖が渦巻いているのが。彼女の細い指先は、微かに、しかし確かにガタガタと震えていた。
(くくっ……ははははっ!)
私は口元をナプキンで拭うふりをしながら、声に出して笑い出しそうになるのを必死で堪えなければならなかった。
ピルを飲んで、煩わしい育児など一切せずに、裕福な暮らしを永遠に貪るつもりだったのだろう。自身の完璧なプロポーションが崩れることを何よりも恐れ、夜泣きで睡眠を削られることを嫌悪していたあの強欲な女が。
私の細工にまんまと嵌っただけでなく、よりによって兄の子供を、一度に『三人』も腹に宿すことになるとは。
これ以上の皮肉があるだろうか。
三つの命に内側から栄養を吸い取られ、腹の皮は限界まで引き伸ばされ、醜い妊娠線が刻まれる。彼女が最も誇りにしていた美貌は無惨に破壊され、これから数年間は三人の乳飲み子に泣き喚かれる地獄の日々が待っているのだ。
まさに、自らの傲慢さと強欲さが招いた、滑稽の極みと言うべき罰だった。
「さあ、乾杯しよう! 栄子と、三人の天使たちの未来に!」
兄の音頭で、最高級のヴィンテージ・シャンパンが抜栓された。
ポンッ、という軽快な音と共に、黄金色の液体がクリスタルグラスに注がれていく。兄や両親、そして私の前には、繊細な泡が立ち昇るシャンパングラスが並べられた。
しかし、栄子の前に置かれたのは、常温のたただのミネラルウォーターが入ったグラスだった。
「栄子は妊娠中だから、お酒は絶対に駄目だよ。カフェインも控えないとね。君の体は、もう君一人のものじゃないんだから」
兄は極端なほど過保護な手つきで、栄子の前に水が入ったグラスをそっと置いた。
「ええ、もちろんよ。赤ちゃんのために、私、我慢するわ」
栄子は完璧な作り笑いで頷いた。
私は、その光景をじっと見つめていた。
私は知っている。彼女は毎週、酒屋にワインセラーやパントリーを様々な酒で埋めさせていることを。元来の酒好きであることを。
目の前で極上のシャンパンの香りが漂う中、自分だけが無味無臭の水を飲まされる屈辱。そして、これから先何年も続くであろう、「母親」としての息の詰まるような制約。
黄金の鳥籠は、ついに彼女にとって逃げ場のない『牢獄』へと変わったのだ。
「……おめでとうございます、義姉さん」
私は静かに立ち上がり、自分のシャンパングラスを栄子の水が入ったグラスへと向けた。
「え……? あ、ありがとう、豊さん」
栄子が少し戸惑ったように水のグラスを持ち上げる。
カチン、と。
高級なクリスタルと、ただのガラスがぶつかる、ひどく無機質で冷たい音が響いた。
私はグラスを傾け、冷えたシャンパンを喉の奥へと流し込んだ。そして、兄や両親が歓談に夢中になっている隙を突き、栄子に向かって、わずかに身を乗り出した。
彼女にしか聞こえない、氷のように低く、静かな声で囁く。
「三つ子とは、本当に奇跡ですね。……毎日欠かさず飲んでいらした『あのサプリ』が、よほどよく効いたんでしょう」
「…………ッ」
その瞬間、栄子の動きが完全に静止した。
完璧な微笑みを顔に貼り付けていた彼女の表情筋が、微かに、しかしはっきりと硬直する。
彼女の目が、驚愕と、底知れぬ恐怖に見開かれた。水の入ったグラスを握る彼女の手が、かすかに震え、浮かんだ水滴がポチャリと音を立てる。
『どういうこと?』
声にならない彼女の動揺が、痛いほどに伝わってくる。
ただのビタミン剤であれば、「サプリが効いた」と言われてここまで狼狽えるはずがない。彼女自身が、自分が飲んでいたものが「絶対に妊娠を防ぐはずのピル」であったと認識しているからこその反応だ。
そして、私のこの言葉は、彼女の脳内に一つの致命的な疑惑の種を植え付けるには十分すぎた。
『もしかして、この男は、私がピルを飲んでいたことを知っていた?』
『いや、それどころか……私が妊娠したのは、この男が何かを仕組んだからではないのか?』
私は、彼女の瞳の奥で急激に膨れ上がる疑心暗鬼と恐怖を、まるで極上のワインを転がすようにじっくりと味わった。
「どうかしましたか? 義姉さん。お顔の色が優れませんよ」
私は一切の感情を排した冷徹な目で彼女を見下ろし、わざとらしく小首を傾げてみせた。
「い、いえ……なんでもないわ。ただ、少し貧血気味で……」
栄子はひきつった笑みを浮かべ、逃げるように視線を逸らして水のグラスに口をつけた。
その喉が、ゴクリと大きく上下する。
哀れな泥棒猫。
お前はもう、自分が完璧な支配者だなどと錯覚することはできない。
お前のその首には、すでに私という『番犬』の牙が深く食い込んでいるのだ。
兄の純粋な愛という名の重圧に押し潰されながら、見えない私の監視に怯え、三つの命に腹を食い破られる恐怖に震えるがいい。
私は再び自分の席に深く腰を下ろし、極上のシャンパンの残りをゆっくりと飲み干した。
この完璧な祝宴の裏側で、私だけが知る残酷な真実。
矢絡深家を守るための私の冷酷な遊戯は、まだほんの序章に過ぎなかった。




