第28話 仕掛けられた地雷
(落ち着け。時間はまだある。論理的に動け)
自分に言い聞かせながら、微かに震える指先でバッグのフラップを開けた。
内ポケットを探り、あの煌びやかなケースを引きずり出す。
あらかじめ用意していた自分のケースをポケットから取り出し、栄子のケースの中にあるピルの数を素早く視認した。
「……十二錠」
私は自分のケースから余分なビタミン剤を抜き取り、正確に同量に合わせた。
その時だった。
二階の階段の方から、カツッ、カツッ、と鋭いハイヒールの足音が近づいてきた。
(戻ってくる……!)
全身の血が瞬時に凍りつくような焦燥感が襲った。
指先がもつれそうになるのを必死に抑え込み、ビタミン剤の入ったダミーのケースを栄子のバッグの奥底へ滑り込ませる。本物のピルが入ったケースを自らのスラックスのポケットにねじ込み、シャネルのバッグのフラップの金具を、カチャリと音を立てないように慎重に閉じた。
急いでダイニングテーブルの自分の席に戻り、冷めた紅茶のカップを手に取ったその瞬間、ダイニングの重厚な扉が開いた。
「お待たせしましたわ」
完璧な微笑みを顔に貼り付けた栄子が、母と共に戻ってきた。
「あら、豊さん。どうかしました? 少しお顔の色が優れないようですが」
栄子が小首を傾げ、私の顔を覗き込む。
「……いえ。少し、仕事の複雑なバグを思い出して、考え込んでいただけです」
私は表情筋を微動だにさせず、ひどく乾燥した喉から淡々とした声を絞り出した。
「プログラマーのお仕事も大変ですね」
彼女は何の疑いも持たず、自身のバッグを手に取ってソファに座り直した。
私は紅茶を一口飲み、冷たい液体と共に、喉の奥から這い上がってくる狂喜を飲み込んだ。
これで、彼女が頼りにしていた絶対的な防壁は完全に崩れ去った。
彼女は明日から、ただの安いビタミン剤をピルだと信じ込んで飲み続け、兄と関係を持ち続けるだろう。そして毎週この食事会で、知らない間に交換され続けることになる。
兄を騙し、この家を食い物にしようとする傲慢な泥棒猫。
兄の望む「子供」は、私のこの震える手による裏工作によって、やがて強制的に引き起こさせてみせる。
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私には、一つの確固たる信念がある。
兄である隆史を、この薄汚れた世界から何に代えても守り抜くことだ。
私が栄子のバッグからピルを抜き取り、偽のビタミン剤にすり替え続けてから数ヶ月の間、あの泥棒猫は実に滑稽な一人芝居を演じ続けていた。
週に一度の親族の食事会でも、彼女は欠かさずスマートフォンのアラームを鳴らし、「美容のためのビタミン剤ですの」と優雅に微笑みながら、私が毎度用意する偽の錠剤を口に含んでいた。
そのプラシーボ効果に守られていると信じ切った彼女は、休日のたびに「エステ」や「パーソナルトレーニング」と称して都内へと出かけていった。煌びやかな鳥籠の中で、お人好しの兄の財産を湯水のように使い、自らの欲を満たしているのだろう。
だが、彼女のその浅はかな自由は、すでに私の手によって完全に期限を区切られていた。彼女が偽の錠剤を飲み下すたび、その体内では着実に、私が仕掛けた「結果」を育むための土壌が作られていたのだから。
そして、その日は唐突に訪れた。
初夏のある午後。私が自室のモニターに向かい、海外のセキュリティフォーラムのログを解析していると、突然、廊下を走るけたたましい足音が響き、ドアが乱暴に開け放たれた。
「豊! 大変だ、豊!」
そこに立っていたのは、ネクタイを緩め、汗だくになった兄の隆史だった。その顔は異常なほど紅潮し、目は涙で潤んでいる。
「落ち着いてください兄さん。救急車で運ばれた栄子さんの事ですか?」
私が冷静に尋ねると、兄は私の肩を力強く掴み、感極まった声で叫んだ。
「栄子が……! 栄子が、……妊娠していたんだよ! 栄子のお腹の中に、僕たちの天使が宿っていたんだ!」
兄はその場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆って歓喜の涙をボロボロと流し始めた。
「ああ、神様……。こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。栄子は本当に、僕の女神だ。彼女が僕の妻で、こうして赤ちゃんまで授けてくれるなんて……」
「……そうですか。それは、本当におめでとうございます、兄さん」
私は静かに歩み寄り、泣きじゃくる兄の背中に手を置いた。
表面上は、兄の幸福を心から祝う、出来た弟の顔を作って。
しかし、私の胸の奥底では、制御しきれないほどの巨大な嘲笑の渦が沸き起こっていた。
(傑作だ……!)
お茶会の最中に倒れたということは、義父母の目の前で救急車で運ばれ、そのまま妊娠の事実を全員の前で宣告されたということだ。
あの女は、自分が完璧に妊娠をコントロールしていると信じ切っていたはずだ。自分だけが兄を騙し、この裕福な生活を気ままに貪れると高を括っていた。
それが、どうだ。
医師から「おめでとうございます、妊娠していますよ」と告げられた瞬間、そしてその傍らで兄や両親が狂喜乱舞し、逃げ道を完全に塞がれた瞬間。あの完璧に計算された令嬢の仮面の下で、彼女がどれほど無様に絶望し、激しく狼狽えたことか。
(ああ……惜しいことをした。その滑稽で惨めな顔を、特等席で見てやりたかった)
私が仕掛けた地雷は、これ以上ないほど最高のタイミングとシチュエーションで、彼女の足元で爆発したのだ。
「豊、僕はこれからもっともっと、栄子を大切にするよ。彼女と子供のためなら、なんだってする」
「ええ。兄さんは、立派な父親になりますよ」
私は、純粋な愛に満ちた兄の顔を見下ろしながら、この完璧な喜劇の幕開けに、心の中で冷たい祝杯をあげていた。




