第27話 番犬の独白
私、矢絡深豊には、一つの確固たる信念がある。
兄である隆史を、この薄汚れた世界から何に代えても守り抜くことだ。
兄・隆史は、資本主義社会を生き抜く経営者としては、あまりにも純粋すぎた。人を疑うという機能が致命的に欠落しており、相手の言葉の裏にある「悪意」や「打算」を読み取ることができない。
彼の底なしのお人好しぶりは、美徳であると同時に、破滅を招く致命的な弱点でもあった。
数年前、矢絡深家が経営する輸入車ディーラーが、存続の危機に陥ったことがある。
原因は、兄が心酔していた悪質な旧車ブローカーによる、巨額の投資詐欺だった。実体のない海外のクラシックカー・オークションの代行話を持ちかけられ、兄は相手の「車への情熱」という耳触りの良い言葉を完全に鵜呑みにし、会社の資金を億単位で注ぎ込もうとしていたのだ。
私がその異常に気づき、忠告しても、兄は「彼のような車を愛する人間に悪い人はいないよ」と笑うだけだった。
だから私は、裏で泥をかぶる決意をした。
プログラマーとしての技術を使い、相手のダミー会社のサーバーをハッキングし、過去の詐欺歴と資金洗浄の決定的な証拠データを抜き取った。さらに、その証拠をネタに裏社会の人間と接触し、こちらが法を犯すリスクを背負ってブローカーを徹底的に脅し上げ、契約を強引に白紙に戻させたのだ。
事の顛末を知らない兄は、「急に向こうから契約キャンセルの申し出があったよ。縁がなかったんだな」と、最後まで呑気に微笑んでいた。
その時、私は悟った。
兄のこの異常なまでの純粋さは、私が保護しなければならない「善の権化」だ。ハイエナのように群がってくる悪意から兄を守るためには、私が自ら『番犬』となり、時には手を血に染めてでも敵を噛み殺さなければならないのだと。
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そんな兄が、ある日「結婚したい女性がいる」と、本宅の食事会に一人の女を連れてきた。
弓富士栄子。兄より一回り以上も年下の、誰もが目を奪われるほどの若さと美貌を持った女だった。
彼女は淡いブルーの清楚なワンピースに身を包み、完璧なマナーと教養ある言葉遣いで、両親をあっという間に魅了した。兄の偏執的な旧車趣味に対しても、驚くほど深い理解を示し、兄は「神様が遣わした女神だ」と完全に骨抜きにされていた。
だが、私の目は誤魔化せない。
応接室で彼女が三つ指をついて頭を下げた瞬間、私と彼女の視線が空中で交差した。
その瞳の奥を覗き込んだ瞬間、私は背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
彼女の完璧な笑顔の下に隠されていたのは、泥水の中から這い上がってきたようなドス黒い野心と、底知れぬ強欲さだった。彼女の目には、兄への愛情など微塵もない。そこに映っているのは、矢絡深家が持つ莫大な財産と、圧倒的な地位だけだ。
(……泥棒猫め)
自分の武器である美貌と若さを最大限に利用し、兄という最も裕福でサバキやすい獲物を一本釣りしたのだ。
私は一切の感情を顔に出さず、冷たい視線で彼女を観察し続けた。彼女がこの家に寄生し、兄を食い物にしようというのなら、尻尾を出した瞬間にその喉首を噛みちぎる。そう固く心に誓い、私は彼女に対する24時間の徹底的な監視をスタートさせた。
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結婚して数ヶ月が経った頃。
初夏の陽射しが差し込む本宅のテラスで、洗車を終えた兄がぽつりとこぼした。
「栄子もあんなに子供を欲しがってくれているのに、なかなか授からなくてさ……」
悲しそうに眉を下げる兄を見て、私は内心で冷笑した。
あの自己顕示欲の塊のような強欲な女が、己の完璧なプロポーションを崩し、自由な時間を奪われる泥臭い育児を自ら望むはずがない。絶対に裏で何かをしている。
私のその直感は、ある日の本宅での親族揃っての食事会で、完全な確信へと変わった。
食後のティータイム。歓談の最中、栄子のスマートフォンから微かなアラーム音が鳴った。
彼女は「ごめんなさい」と小首を傾げてアラームを止めると、シャネルのバッグからクリスタルガラスのような煌びやかなケースを取り出した。中から直径六ミリほどの小さな白い糖衣錠を一つ取り出し、優雅な手つきで水と共に飲み込んだ。
「ビタミン剤ですの。美容のために欠かさず飲んでいて」
義父母は「感心ね」と微笑んでいたが、私の脳内では即座に論理的なアラートが鳴り響いていた。
美容サプリ? 馬鹿げている。
ただのビタミン剤を飲むために、毎日、分単位でスマートフォンのアラームをセットし、厳密に時間を管理する人間など存在しない。毎日、狂いなく同じ時間に服用しなければならない薬。そして、「子供が欲しがっている」と兄に嘘をつきながら、妊娠を避けたがっている若い女。
すべての条件を満たす答えは、一つしかない。
彼女が飲んでいるのは、おそらくピルだ。
食事会を終えた私は、すぐさま自室に戻り、青白く光るトリプルモニターの前に座った。
キーボードを叩く指が、獲物を追い詰める猟犬のように加速する。
彼女が飲んでいた錠剤の特徴。直径約六ミリ、厚さ二ミリ、白色の糖衣錠。
私は自身で構築したスクレイピングツールを走らせ、国内外の膨大な医薬品およびサプリメントのデータベースへハッキングまがいのアクセスを仕掛けた。数分後、モニターには外見のステータス全てが一致した、医療用ピル——『ヤーズフレックス』を弾き出した。
やはりな。
ピルを飲んでこの家に寄生し続けるつもりか。……いいだろう。なら、強制的に腹に命を宿させてやる。もし子供を産んで『本物の母親』に変われるなら、過去の打算には目をつぶり、兄さんの妻として認めてやろう。だが、もし命を授かってもなお、己の強欲さを優先するようなら……その時は、俺がこの手で完全に排除する。
私は次に、僅かに遊びを持たせたサイズを検索し、ほぼ完全に一致する、安価な海外製のビタミン剤を探し出した。
同時に、彼女のSNSの画像や持ち物の特徴から、愛用しているサプリメントケースのブランドと型番も特定し、合法的なネット通販で即座に購入ボタンを押した。
数日後、私の手元には、栄子のものと寸分違わぬ煌びやかなケースと、ダミーの白いビタミン剤が揃っていた。
あとは、これをすり替えるだけだ。
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決行は、週に一度の親族揃っての晩餐会の日だった。
食事の終盤、栄子が母に連れられて、本宅の二階にあるゲストルームのアンティーク家具を見に行った。兄と義父はテラスに出て、趣味の車の話に花を咲かせながら葉巻を吹かしている。
広大なダイニングルームには、私一人だけが残された。
視線の先、豪華なソファの上には、栄子の黒いシャネルのバッグが無防備に置かれている。
私は音を立てずに立ち上がり、バッグへと忍び寄った。
普段、どれほど複雑なシステムのバグに直面しても、あるいは裏社会の人間と対峙した時でさえ、私の心拍数が乱れることはない。常に冷徹な機械のように思考を保つことができる。
だが、この時ばかりは違った。
ドクン、ドクンと、心臓が肋骨を内側から叩き割るような勢いで激しく脈打っている。
もし、今この瞬間に栄子や義母が部屋に戻ってくればどうなるか。
「義姉のバッグを無断で漁る変質者」として、私は兄からの信頼を永遠に失うことになる。矢絡深家から追放され、番犬としての立場を奪われれば、もう兄をあの女の毒牙から守ることはできなくなるのだ。
極度の緊張で、手のひらにじっとりと嫌な冷や汗が滲む。背筋が粟立つ。




