第26話 ぶちまける毒妻と番犬の嘲笑
隆史が、悲痛な声で私の名前を呼ぶ。
「お金よ! 財産と地位だけが目当てだったの! 旧車なんてただの鉄屑だし、あなたとの夜の生活も、吐き気がするほど退屈だった! だから私は、外で別の男と寝ていたのよ!」
刑事たちが私を制止しようと腕を引くが、私はそれを振りほどく勢いで叫び続けた。
「教えてあげるわ、最高の真実を! あなたが『奇跡の天使』だってもてはやしているあの三つ子! 長男と三男はね、あなたの子じゃないわ! 私が外で遊んでいた、粗暴なチンピラの種よ! あなたはずっと、他人の子供を愛しい愛しいって、バカみたいに崇めていたのよ!」
言ってやった。アイツの机にあったDNA鑑定書ですでに父親が違うことは知っていたのだろうが、それでも家族ごっこを続けていた事への現実を。
これであの男は、完全に発狂する。自分を殺そうとした妻に托卵され、見ず知らずの他人のチンピラっ子を育てさせられていたと、妻の本心を知れば、そのお人好しな心はズタズタに引き裂かれ、一生立ち直れないほどの絶望を味わうはずだ。
「ははっ……あははははっ! ざまあみろ! お前なんか、一生一人で寂しく生きていけ!」
私は狂ったように笑い声を上げた。
しかし。
意に反して無であり続ける隆史。
「……栄子」
隆史は、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
その顔には、怒りも、絶望も、憎悪も、微塵も浮かんでいなかった。
先ほどまで激しく泣きはらしていたであろう真っ赤な目は、今、この世のすべての慈愛を湛えたかのような、異様なほど穏やかな光を宿していた。
「栄子、君は……とても疲れているんだね」
「……え?」
隆史は私を見下ろし、まるで駄々をこねる子供をあやすかのように、ひどく甘く、優しい声で語りかけた。
「僕が悪かった。君にこれほどのプレッシャーを与えていたなんて、気づけなかった僕が悪いんだ。君は、三人の天使たちを産んでくれた、僕の神聖な女神なのに」
「な……何を、言っているの……? 聞こえなかったの!? あの子たちは……!」
私が反論しようとしたその時。
リビングの奥から、騒ぎを聞きつけた三つ子たちが、シッターの舞子に連れられて怯えたように顔を出した。
隆史は振り返り、その三人の子供たち――浩二の血を引く長男と三男、そして自分の血を引く次男を、三人まとめてその大きな腕で力強く抱き寄せた。
「パパ……ママ、どうしたの?」
不安そうに見上げる子供たちの頭を、隆史は愛おしそうに何度も何度も撫でた。
「大丈夫だよ。ママは少し、疲れてしまっただけなんだ。パパが、君たちを守るからね」
そして、隆史は私の方へと向き直り、本物の父親の顔をして、狂気的なまでに澄み切った声でこう告げてきた。
「血は繋がっていなくても……初めてこの子たちを抱いた時の温もりは、嘘じゃない。この子たちは僕が引き取るよ」
「…………ッ!」
全身の鳥肌が、一斉に逆立った。
狂っている。
この男は、完全に狂っている。
自分を殺そうとした妻の裏切りを知っても、他人の血が混ざっているという最悪の真実と妻の悪魔のような心情を突きつけられても、彼の「愛」は一ミリも揺るがなかったのだ。
彼は、自らが信じたい美しい幻影の世界に完全に閉じこもり、どんな悍ましい現実をも、自身の異常な愛情で飲み込んでしまった。
「僕の天使たちは、僕が立派に育てるよ。だから栄子、君は……向こうで、ゆっくり休むといい」
隆史が私に向けたその笑顔は、私がこの世で見てきたどんな悪意よりも、恐ろしく、薄ら寒く、そして絶対的な拒絶だった。
私はもう、彼にとって『妻』ではなく、ただの『壊れた母体』として処理されたのだ。
「……ああ……あぁぁぁ……っ!」
完全に心がへし折られた私は、もう反抗する気力すら失い、ただうわ言のように呻き声を上げながら、刑事たちに引きずられていった。
エントランスの開かれたままの扉、眩しい朝日と、けたたましく回るパトカーの赤色灯が私の視界を真っ赤に染め上げる。
パトカーの後部座席に押し込まれる直前。
私はふと、白亜の豪邸の奥を振り返った。
狂気の包容力で三つ子を抱きしめる隆史。
その時だった。
エントランスの奥、リビングへと続く廊下の暗がりから、ゆっくりと一つの影が歩み出てきた。
義弟の、豊だ 。
普段は自室に引きこもっているはずの彼が、なぜかこの修羅場の中心に静かに佇んでいた。
私と豊の視線が、空中で真っ直ぐに交差する 。
豊の漆黒の瞳は、一切の感情を排した氷のように冷え切っていた。彼は悲壮な私を見下ろし、口角をわずかに引き上げると、かつて私が矢絡深家に初めてやってきた時に見せたのと同じ、完璧で優雅な「令嬢の会釈」を、ゆっくりと、嘲るようにして見せた。
――『すべては、お見通しですよ』
声なきそのメッセージを受け取った瞬間、私の全身から一気に血の気が引いた。
私は最初から、この『番犬』の手のひらの上で滑稽に踊らされていたのだ。
――『さようなら、強欲な泥棒猫』
声なきそのメッセージが、私の脳内に直接響いた気がした。
バタンッ!
冷たい鉄の扉が閉められ、私は完全に、自分の作り上げた地獄の底へと閉じ込められた。
遠ざかっていく完璧な豪邸を涙と絶望で滲む視界の端に捉えながら、私は自身のすべてが崩壊していく音を、ただただ聞き続けるしかなかった。
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パトカーのけたたましいサイレンが丘を下り、やがて高級住宅街にいつもの静寂が戻ってきた。
本宅の自室に戻った俺、矢絡深豊は、青白く光る三つのモニターの前に深く腰を下ろした。
さて、どこから話そうか。
あの強欲で浅はかな女は、自分がすべてを支配し、この盤石な敷地で完璧な犯罪を成し遂げたと信じて疑わなかった 。
だが、完全犯罪というものは、それを「完璧に監視し、コントロールする者」がいて初めて成立するものだ。
愚直で、底なしにお人好しな兄さん。
そして、矢絡深家の財産を食い物にしようとした、あの哀れな泥棒猫。
彼女が一体いつから、俺の張り巡らせた蜘蛛の巣に絡め取られていたのか。
どうやって、あそこまで美しく自滅の道を歩ませたのか。
時計の針を、少しだけ巻き戻すことにしよう 。
この先は、愛する家族を守るために牙を研ぎ続けた「番犬」による、ささやかな裏工作の記録だ。




