第24話 暗闇で微笑む死神
深夜二時。
分厚い遮光カーテンに閉ざされた寝室は、完全な暗闇と静寂に支配されていた。
キングサイズのベッドの隣では、夫の隆史が規則正しい寝息を立てている。私を神聖な母体として崇め、奇跡の三つ子を授かったと狂喜の涙を流していたこの男の正体は、妻の愛人を切り刻んで殺した猟奇的な殺人鬼だ。
(……ハッピーエンドにするにはこれしかないわ。さようなら、あなた。オリーブが幕を降ろしてあげる)
私は暗闇の中で冷たく見下ろすと、音を立てずにシルクのシーツを抜け出した。
足音を殺して廊下を歩き、あらかじめ隆史の書斎の工具箱から盗み出しておいた重い金属製のニッパーを手に取る。手のひらに伝わる鉄の冷たさが、私のドス黒く燃え上がる生存本能と強欲さをさらに研ぎ澄ませていく。
向かう先は、新居の地下にある広大なガレージだ 。
重厚な扉をそっと開けると、空調の効いた冷たい空気と共に、ガソリンとオイル、そして古い革の匂いが鼻腔を突いた。暗闇の中に鈍い光を放って鎮座しているのは、隆史が己の命よりも愛してやまない旧車、ジャガー・Eタイプだ。
「……ふふっ」
私は誰にも聞こえない声で、薄く笑った。
矢絡深家の豪邸は、小高い丘の頂上付近に建っている。重厚な門を出た先にある道路は、長く、そして非常に急な下り坂になっており、その一番下は分厚いコンクリートの壁がそびえるT字路になっているのだ 。
現代の車よりもはるかに車体重量のある、何十年も前の重い鉄の塊。それがもし、あの急な下り坂の途中で完全にブレーキを失えばどうなるか 。
運転席でパニックに陥った隆史が、いくらペダルを踏み込んでもスカスカと空を切り、車は恐ろしいスピードで加速しながら、坂の下のコンクリート壁へと一直線に激突する 。エアバッグすら搭載されていない旧車だ。助かる見込みは、万に一つもない。
私は冷たいタイル張りの床に膝をつき、車のフロント部分、前輪タイヤの裏側へと体を潜り込ませた。
スマートフォンのライトを極限まで暗くして照らすと、そこには昨日パソコンの画面で穴が開くほど確認した、黒くて太いゴム製の管――ブレーキホースがあった 。
完全に切断してしまえば、発進前のガレージ内でオイルが漏れ、細工に気づかれてしまう。だからこそ、表面のゴムを深くえぐり、中の耐圧層にギリギリ届くか届かないかの絶妙な深さで刃を入れる必要がある。そうすれば、坂道を下る途中で彼がブレーキペダルを強く踏み込み、強烈な油圧がかかったその瞬間に、ホースは限界を迎えて破裂するのだ。
私は震えを抑え込んだ両手でニッパーを握りしめ、硬いゴムの管に刃を押し当てた 。
ギリッ、と。
鈍い音がガレージに響き、ゴムが深く断ち切られる感触が手に伝わる 。もう一度、場所を少しずらして刃を入れる 。これで十分だ。
「……これで、彼は死する。不倫相手を殺した罪悪感に耐えきれず、自ら死を選んだ悲劇の夫として」
私は車体の下から這い出し、服についた埃を払い落とした。
その時だ。
ふと、ガレージの奥、工具が並べられた棚のさらに上の暗がりに、小さな赤い光がチカッと瞬いたような気がした。
(……え?)
私は息を止め、目を凝らした。しかし、次に瞬きをした時には、その赤い光は完全に闇に溶けて消え去っていた。
(気のせいね。防犯センサーのランプか何かでしょう)
極度の緊張が生んだただの錯覚だ。私はすぐに思考から切り捨てた。
私の計画は完璧だ。私が偽造した完璧な『遺書』は、すでに隆史のデスクの引き出しにセットしてある。
あの猟奇的な夫は明日死に、すべての財産は私のものになる。
完全犯罪という名の狂気に酔いしれながら、私は足取りも軽く、再び暗闇の寝室へと戻っていった。
+++
翌朝。
高く澄み切った青空から、眩しい朝日がリビングルームに降り注いでいる。
私は完璧なメイクと、清楚で美しいワンピースに身を包み、「悲劇の未亡人」になる前の最後の演技をこなすための準備を整えていた 。
キッチンで優雅に紅茶を淹れていると、背後の廊下から重い足音が近づいてきた。
「おはよう、あなた。今日もいいお天……」
完璧な妻の微笑みを顔に貼り付けて振り返った私の言葉は、途中で不自然に途切れた。
リビングに現れた隆史の顔を見て、私は思わず息を呑んだ。
彼の両目は、まるで何かにひどく殴られたかのように真っ赤に充血し、異常なほど腫れ上がっていた。まぶたは重く垂れ下がり、顔全体がぐんじょ色に淀んでいる 。一目で、彼が狂ったように大泣きし続けていたことがわかる、あまりにも異様で凄惨な姿だった 。
「隆史さん……? どうしたの、その目……。何かあったの?」
私は急いでティーカップを置き、心底心配そうな顔を作って彼に歩み寄った。
しかし、隆史は何も答えない 。
虚ろな目で私を見つめ下ろしたかと思うと、突然、太い腕を伸ばして私を力任せに抱きしめた。
「っ……あなた……?」
「……栄子」
耳元で聞こえる声は、ひどく掠れて震えていた。
隆史はそれ以上言葉を続けることができず、ただ私の肩に顔を埋め、奥歯をギリギリと噛み締めるようにして沈黙した 。その巨体が、小刻みに震えている。
(どういうこと?)
「泣き虫さん。子供に見られちゃうわよ」
私は彼が安心するように、甘く優しい声で囁いた。
しばらくして、隆史はゆっくりと私から体を離し、「それじゃあ」とだけ短く告げると、重い足取りで玄関へと向かっていった。
何だったの、あれは……。まあいい、いよいよだ。
私は胸の奥で高鳴る狂喜の鼓動を押さえ込みながら、彼を笑顔で見送ろうとエントランスに続いた 。彼があのジャガーに乗り込み、坂道を下っていけば、すべてが終わる。
その時だった。
ピンポーン、ピンポーン。
静かな朝の空気を切り裂くように、インターホンの甲高い音が連続して鳴り響いた。
(……こんな朝早くに、誰?)
隆史が無言で玄関の重厚な扉を開ける。
その瞬間、ドカドカという複数の荒々しい足音と共に、スーツ姿の屈強な男たちが数人、一気にエントランスへと踏み込んできた 。
「矢絡深隆史さんのお宅で間違いないですね」
先頭に立つ、鋭い目つきの初老の男が、警察手帳を高く突き出した 。
「はい。間違いありません」
隆史がボソッと呟く中、男たちの視線は、彼の後ろに立っていた私へと真っ直ぐに突き刺さった。
「矢絡深栄子さんですね」
「え……? は、はい。そうですけれど……」
何が起きているのか全く理解できず、私が戸惑いの声を上げた瞬間、刑事の口から信じられない言葉が放たれた。
「あなたには、殺人未遂の容疑がかかっています。署まで同行願います」
――は?




