第23話 偽りの遺言
明確な殺人の告白。これで、警察の捜査は完全に打ち切られる。
ペンを止めかけた私の脳裏に、ふと、底知れぬ強欲さが鎌首をもたげた。
(もし隆史が死んだら、財産分与で、あの鬱陶しい義両親や、気味の悪い義弟の豊が口を出してくるかもしれない……)
それは絶対に許されない。夫の財産は、私がこの完璧な演技の対価として手に入れるべき正当な報酬だ。一円たりとも他人に渡す気はない。
私は再び万年筆を握り直し、遺書の最後に、ある一文を力強く書き足した。
『私の保有するすべての不動産、預貯金、および会社の株式等、一切の財産は、心から愛する妻の栄子に全額を相続させる。
どうか、子供たちと幸せに生きてほしい』
完璧だ。これ以上ないほどに美しく、私にとって都合の良いシナリオ。
私は引き出しの奥深くから、隆史が厳重に隠して保管している黒水牛の実印を取り出した。朱肉にしっかりと押し当て、便箋の署名の横に、体重をかけて力強く印を下ろす。
ゴクリ、と。
赤い印影が、まるでこの計画の生贄となる血の刻印のように、真っ白な紙の上に鮮やかに浮かび上がった。
「……これで、準備は完璧」
完成した遺書を見下ろしながら、私の口からこぼれた声は、自分でも驚くほど冷酷で、喜悦に満ちていた。
私を殺そうと企む猟奇的な夫に、自ら引導を渡すための絶対的な免罪符。
それを手に入れた私は、極限の恐怖を完全に飼い慣らし、自らの手で完全犯罪という名の狂気の扉をこじ開けようとしていた。
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その日の深夜。
分厚い遮光カーテンに閉ざされた寝室は、完全な暗闇と静寂に支配されていた。
最高級のシルクのシーツの上で、隆史はいつものように私を神聖な祭壇に捧げる供物のように、ひたすらに優しく、スロースな動きで抱きしめてきた。
「……栄子、愛しているよ。君のすべてが愛おしい。僕の可愛いお姫様」
耳元で囁かれる甘ったるい声。私を慈しむように撫でる分厚い手のひら。
しかし、今の私にとってその腕は、いつ私の首をへし折り、気管を潰すかわからない『殺人鬼の腕』にしか感じられなかった。浩二の首を掻き切ったであろうその手が私の肌を這うたび、全身の粟が立ち、内臓がせり上がるような強烈な吐き気に襲われる。
「ひっ……ぁ……」
恐怖でガタガタと震える体を抑えきれず、悲鳴が漏れそうになるのを、私は暗闇の中で必死に唇を噛み締めて殺した。
「どうしたんだい、栄子? 寒いのかな」
隆史が心配そうに私を覗き込み、さらにその熱い体を密着させてくる。逃げ場のない息苦しさ。狂気に満ちた愛情という名の拷問。
私はきつく目を閉じ、心の中で呪文のように何度も何度も唱え続けた。
(もう少し……もう少しの我慢よ、栄子。耐えなさい)
この地獄のような夜も、明日で終わる。私の完璧な計画が成功すれば、この底知れぬ恐怖を撒き散らすバケモノとも永遠にお別れできるのだ。
(この男が死ねば、矢絡深家の莫大な財産はすべて私のものになる。あの気味の悪い豊や、口うるさい義両親に一円たりとも渡さず、私と子供たちだけで一生遊んで暮らせる、完璧な人生が手に入るのよ……!)
極限の恐怖と、それを上回る底なしの強欲。
相反する二つの感情が激しく交差する中、私は暗闇で隆史の背中に震える腕を回し、「私も……愛しているわ、あなた」と、この世で最も甘く、そして毒に満ちた嘘を囁き返した。
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翌日の昼下がり。
私は「ガレージの掃除を手伝うわ」と殊勝な妻を演じて隆史についていき、新居の地下にある広大なガレージへと足を踏み入れた。
ガソリンとオイルの匂いが漂う中、隆史が最も愛する旧車、ジャガー・Eタイプが鈍い光を放って鎮座している。
「ありがとう、栄子。君が僕の趣味に付き合ってくれるなんて、本当に嬉しいよ」
隆史が嬉々としてボンネットを磨いているのを尻目に、私は冷徹な目でターゲットの構造を観察していた。
昨日、パソコンの画面で穴が開くほど確認した箇所。前輪タイヤの裏側の隙間を覗き込むと、黒くて太いゴム製の管――ブレーキホースが確かにそこにあった。
(あれに深く亀裂を入れておけば、油圧がかかった瞬間に破裂して、ブレーキは完全に効かなくなる……)
私は立ち上がり、何食わぬ顔でガレージの入り口から外の景色を見渡した。
矢絡深家の豪邸は、小高い丘の頂上付近に建っている。重厚な門を出た先にある道路は、長く、そして急な下り坂になっており、その一番下は分厚いコンクリートの壁がそびえるT字路になっている。
私の脳内で、冷酷な物理計算が瞬時に行われた。
現代の車よりもはるかに車体重量のある、何十年も前の重い鉄の塊。それがこの急な下り坂で完全にコントロールを失えばどうなるか。
運転席でパニックに陥った隆史が、いくらブレーキペダルを踏み込んでもスカスカと空を切り、車は恐ろしいスピードで加速しながら、坂の下のコンクリート壁へと一直線に激突する。
エアバッグすら搭載されていない旧車だ。運転席の人間が助かる見込みは、万に一つもない。
(完璧だわ。あの壁が、あなたの墓標になるのよ)
「栄子? 外に何かあるのかい?」
「ううん、何でもないわ。今日も良いお天気ねって思っていただけよ」
私は振り返り、もうすぐこの世から消え去る愚かな夫に向けて、この上なく美しく、優しい微笑みを向けてみせた。
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そして迎えた、決行当夜。
深夜、隆史が寝室で深い眠りに落ちたのを確認した私は、音を立てずにベッドを抜け出し、真っ直ぐに彼の書斎へと向かった。
手には、昨日完璧に偽造したあの「遺書」を握っている。
私はキャビネットではなく、隆史が普段最もよく使い、もし警察の捜査が入れば真っ先に開けられるであろうメインデスクの一番上の引き出しを静かに引き開けた。
手帳やペンケースが並ぶその隙間に、白い便箋を綺麗に折り畳んだ封筒を忍ばせる。
『愛する栄子、そして天使たちへ』と書かれた隆史の筆跡の模写が、薄暗い部屋で不気味に浮かび上がった。
パタン、と引き出しを閉める。
これで、殺人事件は「罪悪感に苛まれた犯人の自殺」へと書き換えられ、莫大な財産はすべて正当な未亡人である私の手へと転がり込む。
私の目にはもう、昨日まで私を支配していた怯えは微塵もなかった。
(私を殺そうとするバケモノは、私がこの手で処分する。私が這い上がって手に入れたこの完璧な人生は、誰にも奪わせない)
極限の強欲と、泥水の中で培われた生存本能。
私は書斎の隅に置かれたヴィンテージの工具箱を開け、中から冷たく重い金属製のニッパーをそっと抜き取った。
「さあ、お別れの時間よ、隆史さん」
誰もいない書斎の暗闇の中で、ニッパーを固く握りしめた私の口角が、ゆっくりと、禍々しい三日月のような形に吊り上がっていった。




