第22話 脱出へのシナリオライティング
「殺される前に、私が殺す」
極限の恐怖と絶望が渦巻く長い夜が明け、白み始めた寝室の天井を見つめながら、私、矢絡深栄子の心には、氷のように冷たく、そして強固な決意が固まっていた。
隣で規則正しい寝息を立てている夫の隆史。私を愛し、奇跡の三つ子を授かったと涙を流して喜んでいたこの男が、裏では私の愛人である江上浩二の首を掻き切り、その凶器を平然と書斎に隠し持っている猟奇的な殺人鬼なのだ。
逃げ道はない。忘れ物防止タグで監視され、托卵の証拠も握られている。このまま何もしなければ、あの浩二の血を引く長男と三男、そして私自身も、いずれこのバケモノの手によって確実に切り刻まれる。
(やられる前に、やるしかないのよ……)
その血生臭い思考に行き着いた瞬間、私の脳裏に、すっかり蓋をしていたはずの遠い過去の記憶が、鮮明な映像となって蘇ってきた。
――カビと安煙草の匂いが染み付いた、木造アパートの六畳一間。
私がまだ小学生だった頃の話だ。底辺のホステスである母親と二人暮らしだった私は、その貧しさと母親の職業を理由に、上級生の男子グループから執拗ないじめを受けていた。
『おい、水商売の娘。今日はお前の家で遊んでやるよ』
靴の中に泥を入れられ、ランドセルをゴミ捨て場に放り投げられ、下品な言葉でなじられる日々。彼らは自分より弱く、反撃してこない底辺の人間をいたぶることで、歪んだ優越感に浸っていた。
しかし、私は決して泣き寝入りなどしなかった。
教室の隅で怯えて泣くフリをしながら、私の目は常に彼らの「弱点」を冷酷に観察していたのだ。
ある日、私はいじめっ子たちのリーダー格の少年が、地元の文房具店で万引きをする瞬間を、使い捨てカメラで隠し撮りすることに成功した。さらに、彼の自宅を密かに尾行し、立派な身なりをした彼の父親が、若い女とラブホテルに入っていく決定的な証拠まで掴み取ったのだ。
私は集めた写真を丁寧に切り貼りし、文章を添えて、学校の黒板、職員室のドア、そして少年の自宅のポストへと匿名でばら撒いた。
結果は、あまりにもあっけないものだった。
少年の家庭は両親の凄惨な罵り合いの末に崩壊し、彼は教室で泣き叫びながら、逃げるように隣町へと転校していった。
相手が男だろうと、年上だろうと関係ない。
力で勝てないのなら、用意周到に弱みを握り、自分は安全な場所から、相手を社会的に確実にもみつぶせばいい。泥水の中で生き抜くために身につけた、この「完全なる復讐の成功体験」が、私の血肉となっている。
(あの時と同じよ。私を脅かす奴は、私がこの手で排除する)
隆史は体が大きく、大人の男の腕力を持っている。真正面からやり合えば勝ち目はない。だが、私には「隆史が浩二を殺した」という絶対的な事実を利用できるアドバンテージがある。
私の瞳の中に宿っていた怯えは完全に消え失せ、代わりに、ドス黒く淀んだ生存本能と殺意が静かに燃え上がり始めていた。
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その日の昼下がり。
隆史が会社へ向かい、ベビーシッターの舞子が三つ子たちを連れて公園へ遊びに出かけた後、豪邸には私一人だけが残された。
私は広大なリビングルームのソファに深く腰掛け、テーブルに置かれた最新型の薄型ノートパソコンを開いた。
計画のシナリオはすでに出来上がっている。
『隆史は、妻の愛人である江上浩二を殺害してしまった罪悪感と恐怖に耐えきれず、自ら愛車で事故を起こして自殺した』
これが、私が用意した完璧な結末だ。
警察の捜査が入れば、浩二の遺体の傷口と、隆史の書斎にある血のついた特殊工具の形状が一致することがすぐに判明する。殺人の動機も、私に取り付けられた忘れ物防止タグや、DNA鑑定書によって「妻の不倫と托卵による怨恨」として完全に裏付けられる。
殺人犯の絶望からの自殺。警察は微塵の疑いも持たず、事件は被疑者死亡のまま処理されるはずだ。
私は、美しいネイルが施された指先で、滑らかにキーボードを叩き始めた。
検索窓に打ち込んだ言葉は、『旧車 ブレーキホース 切断方法』。
画面には、車の足回りに関する専門的な解説ページや、整備士のブログが次々と表示される。
隆史は、旧車であるジャガー・Eタイプを何よりも愛している。彼がその愛車の中で死ぬことは、あの男の最期として非常に説得力がある。
矢絡深家の門を出てすぐの道路は、長く急な下り坂になっており、その一番下はコンクリートの壁がそびえるT字路になっている。もし、あの重い旧車のブレーキが坂の途中で完全に効かなくなれば、車は加速したまま壁に激突し、確実に大破する。
「なるほど……タイヤの裏側にある、このゴムの管をニッパーで深く傷つけておけばいいのね」
私は画面に表示されたブレーキホースの構造図を冷徹な目で確認し、頭の中にインプットしていく。完全に切断してしまうと発進前に気づかれる恐れがあるが、油圧がかかった瞬間に破裂するように深い亀裂を入れておけば、坂道を下る途中でブレーキを踏み込んだ瞬間に、確実にコントロールを失う。
続いて、私は検索窓に別の言葉を打ち込んだ。
『遺書 法的効力』『実印 効力』。
いくら状況証拠が揃っていても、決定的な「本人の自白」がなければ、警察は事故を疑うかもしれない。それを防ぐためには、隆史本人が書いたと思われる完璧な「遺書」が必要不可欠だった。
「まさか、私が夫を殺すなんて誰も疑うはずがないわ」
私は画面の光に照らされた自身の美しい顔を鏡で確認し、ふっと余裕の笑みをこぼした。
警察の捜査が入れば、浩二の遺体の傷口と、隆史の書斎にある血のついた特殊工具の形状が一致することがすぐに判明する。あとは動機だわ。……不倫トラブルなんて遺書に書けば、私の首が絞まる。そうだわ、隆史は以前、旧車のブローカーに詐欺に遭いかけたと言っていた。あの男(浩二)が、隆史を強請っていた悪質な詐欺師だったということにすればいいのよ。
悲劇の未亡人。愛する夫を失い、一人で三つ子を育てることになった可哀想で美しい妻。その完璧な役を演じ切れば、私は誰にも疑われることなく、莫大な財産と自由を手に入れることができる。
この計画のブレーキはもうすでに壊れている。誰にも止めることのできない地獄へのドライブがはじまった。
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検索を終えた私は、足音を忍ばせて隆史の書斎へと足を踏み入れた。
分厚い遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋には、古い紙とインクの匂いが満ちている。私は一直線にアンティーク調のキャビネットへ向かい、隆史が過去に使用していた手帳や、彼が手書きでメモを残した書類の束をいくつも引っ張り出した。
デスクの上の重厚な万年筆を手に取り、真っ白な便箋に向かう。
他人の筆跡をコピーする。それは、私にとって決して初めての経験ではなかった。
――カリカリというペン先の音が、ふいに十数年前の記憶とオーバーラップする。
薄暗い四畳半の部屋で、安物のボールペンを握りしめていた少女時代の私。
私をいじめていた男子生徒の筆跡を執拗に観察し、『僕は万引きをしました』という架空の自白メモや、クラスの女子の人間関係を破壊するための『偽のラブレター』を書き殴っていた、あの悍ましい熱中。
他人の言葉を偽造し、現実を自分の思い通りに歪めていく、あの背徳的で全能感に満ちた快感が、指先から蘇ってくるのを感じた。
「……丸みを帯びていて、少し筆圧が弱い。右上がりの癖字ね」
私は隆史の几帳面だが少し気弱な文字の特徴を完璧に捉え、便箋の上で何度も何度も練習を繰り返した。数枚の紙を黒く塗りつぶす頃には、私自身が隆史に取り憑かれたかのように、見分けのつかない筆跡を再現できるようになっていた。
いよいよ、本番の便箋を引き寄せる。
私は冷たい笑みを浮かべながら、淀みない筆運びで言葉を紡いでいった。
『愛する栄子、そして天使の子供たちへ。
私は、取り返しのつかない大罪を犯してしまった。
以前から、江上浩二という男に会社の資金や旧車の取引で強請られ、脅迫を受けていた。家族に危害を加えると脅され、私はあの日、ついに耐えきれず彼の部屋へ行き、彼を殺害してしまった。
毎日、罪悪感と警察に捕まる恐怖で、まともに息をすることもできない。
これ以上、愛する家族に殺人犯の家族という十字架を背負わせるわけにはいかない。
私は、自らの命でこの罪を清算する。本当にすまない。』




