第21話 反撃の決意
大理石の洗面台にすがりつき、私は胃の中のものをすべて便器に吐き出した。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
冷や汗で顔中に髪が張り付き、完璧に施したメイクは涙と吐瀉物の飛沫で無残に崩れ去っていた。巨大な鏡に映る自分の顔は、青白くひきつり、まるで死人のようだった。
何度も冷たい水で口をゆすぎ、震える足でなんとか立ち上がる。
洗面室の分厚い扉を開け、薄暗い廊下へと出た、その時だった。
「……お義姉さん」
「っ!?」
背後から唐突に声をかけられ、私は短い悲鳴を上げて壁に背中を打ち付けた。
そこには、本宅からやってきた義弟の豊が立っていた。手には隆史に渡すのであろう書類の束を持っている。
豊は、壁にすがりついて荒い呼吸を繰り返す私を見下ろし、一切の感情を排した無機質な声を放った。
「ひどい顔色ですね。兄さんが心配していましたよ」
彼特有の、氷のように冷たく、私の皮膚の下の嘘まで透視しようとするような鋭い漆黒の視線。
以前の私なら、この「番犬」の視線に射抜かれるたびに、自分の過去や不貞がバレるのではないかと肝を冷やし、底知れぬ恐怖を感じていた。
しかし、今の私は違った。
豊のその冷たい目を見つめ返しながら、私の心に奇妙な静けさが広がっていくのを感じた。
(……なんだ。この男は、ただの人間じゃない)
豊は、突然現れた素性の知れない若き後妻が、大好きな兄の財産を食い物にするのではないかと警戒しているだけの、ただの常識的で賢い人間だ。それ以上でも、それ以下でもない。
彼がどれだけ私を睨みつけようと、彼には私を殺す狂気はない。
本当に恐ろしいバケモノは、この男ではないのだ。
妻の裏切りを知り、托卵の証拠を握り、愛人の首を掻き切ったその血塗られた手で、何食わぬ顔をして「僕の天使だ」と狂喜の涙を流せる男。
あのダイニングで完璧な笑顔を浮かべている夫・隆史こそが、人間の皮を被った底なしの怪物なのだ。
私は、自分がこれまで警戒すべき相手を完全に間違えていたことに気づき、深い絶望と自己嫌悪に囚われた。
「……ええ、少し貧血を起こしただけよ。心配ご無用だわ」
私は壁に手をついたまま、虚勢を張って冷たく言い放ち、豊の横をすり抜けた。
振り返る気力もなかった。この白亜の豪邸全体が、私を巨大な顎で噛み砕こうとしている見えない牢獄に成り果てていた。
+++
深夜。
分厚い遮光カーテンが引かれた寝室は、完全な暗闇と静寂に包まれていた。
キングサイズのベッドの隣では、隆史が規則正しい寝息を立てて深く眠っている。私はその寝顔を、殺意と恐怖が入り混じった虚ろな目で見下ろしていた。
どうする。これから一体、どうすればいい。
私の頭の中では、生き残るためのシミュレーションが猛烈なスピードで繰り返されていた。
逃げるか?
いや、無理だ。あの忘れ物防止タグがある限り、地の果てまで見つけ出される。
なら、得意の嘘と色仕掛けで丸め込むか?
……不可能だ。隆史はすでにDNA鑑定書という絶対的な証拠を握っている。事実の前では私の嘘など一切通用しない。あの底なしのお人好しは、すでに私を泳がせていたぶる狡猾な怪物に変わってしまったのだ。
警察に通報するか?
『夫の書斎に凶器があります。夫が江上浩二を殺しました』と。
……冗談じゃない。そんなことをすれば、警察の捜査が入り、DNA鑑定書やGPSタグの存在、そして私の不倫と托卵のすべてが白日の下に晒されることになる。
隆史が逮捕されたとしても、私は「夫を殺人鬼に仕立て上げた希代の悪女」として社会的に抹殺される。矢絡深家からは確実に叩き出され、莫大な慰謝料を請求されるだろう。
行き着く先は、泥水のような貧困だ。
(嫌だ……絶対に嫌っ……!)
あのカビ臭い六畳一間のアパート。男にすがりついて泣き叫ぶ惨めな母親の姿。
あの底辺の生活に戻るくらいなら、死んだ方がマシだ。私がどれほどの計算と演技を重ね、自らの魂を売ってまでこの完璧で裕福な人生を手に入れたと思っているのか。
高級車、エステ、ハリー・ウィンストンのジュエリー、そして何不自由ない絶対的な地位。
すべて私のものだ。誰にも奪わせない。
しかし、このまま何もしなければ、いつか必ず隆史の狂気が爆発し、私とあの子供たちは切り刻まれて殺される。あの男は、絶対に私を許してはいないのだから。
暗闇の中で、私の呼吸が次第に荒くなっていく。
逃げることもできない。通報することもできない。何もしなければ殺される。
思考の袋小路を狂ったように走り回っていた私という鼠は、やがて、たった一つの血塗られた出口の前に立ち止まった。
嘘も通じない。逃げることもできない。何もしなければ殺される。
(……殺される前に、私が隆史を殺すしかない)
そうだ。それしかない。
隆史が浩二を殺したという、私の中の絶対的な「事実」を利用するのだ。
隆史は、不倫相手を殺害した罪悪感と、妻への行き場のない愛情に苛まれ、自ら命を絶った。
そういうシナリオを作ればいい。
ただの殺人ではだめだ。私に疑いが向かない、完璧な自殺への偽装。あの旧車を愛する彼ならではの、不自然さのない方法で。
そうすれば、私は「悲劇の未亡人」として夫の莫大な財産をすべて相続し、あの狂気の夫からも永遠に解放される。私の完璧な人生は、誰にも傷つけられることなく守り抜かれるのだ。
「ふふっ……」
暗闇の寝室に、私の乾いた、ひどく歪んだ笑い声が微かに響いた。
恐怖で震えていた私の指先から、ゆっくりと力が蘇ってくるのを感じた。
お人好しで、狂っていて、私を心の底から愛している(と演技をしている)愚かな夫。
待っていなさい。あなたが私を殺す前に、私があなたに最高の終幕をプレゼントしてあげるから。
完全犯罪という名の、絶対的な勝利を。
私は、先ほどまでの恐怖は完全に消え去り、代わりに、どす黒く淀んだ狂気と強欲の炎が、静かに、しかし鮮烈に燃え上がらせた。




