第20話 狂気の刃
神奈川の白亜の豪邸に帰り着いた私は、靴も揃えずにエントランスを駆け抜けた。
庭からは、ベビーシッターの舞子と三つ子たちが遊ぶ無邪気な声が聞こえてくる。隆史はまだ会社から帰っていない。
私はあることを確認したくて真っ直ぐに、重厚なマホガニーの扉が閉ざされた隆史の書斎へと向かった。
ドアノブを回す手が、カチカチと音を立てて震える。分厚い遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋には、古い紙とインク、そして微かな革の匂いが漂っていた。
私はDNA鑑定書を見つけたアンティーク調のキャビネットではなく、部屋の隅に置かれた重厚なローテーブルへと向かった。
そこに、彼が愛してやまない旧車のメンテナンス道具――イギリスから取り寄せたという、ヴィンテージの工具セットの革巻きケースが置かれているはずだった。
(……あった)
鈍く光る黒革のロールケース。
私はそれをテーブルの上に引き寄せ、紐をほどいて乱暴に広げた。油の匂いが鼻を突く。綺麗に磨かれたスパナやドライバーが並ぶ中、私の目は一つの奇妙な形をした工具に釘付けになった。
休日のリビングで、隆史が嬉々として私に見せてきたあの道具だ。
『古い車にはね、どうしても現代の工具じゃ開けられない部品や、癒着した分厚いゴムパッキンがあるんだ。そういう時は、こういう特殊なヘラ工具じゃないと切り裂けないんだよ』
私は息を詰め、その重い鉄の道具を手に取った。
分厚いゴムを力任せに切断するための、波打つようなギザギザとした特殊な刃先。
『凶器は現場に残されていませんでしたが、遺体の傷口の形状から、刃の一部が波打ったような、特殊な形状のナイフが使われたと見られています』
ニュースキャスターの無機質な声が、私の脳内でガンガンと反響する。
震える指先で、刃の表面をなぞる。隆史によって綺麗にオイルで磨き上げられ、一見すると何の変哲もない工具に見える。
しかし、刃の根元。持ち手の木柄と金属の刃が接合している、ごく僅かな隙間の部分。
そこに、オイルの汚れとは明らかに違う、赤黒く乾いた薄いシミのようなものがこびりついているのを見つけてしまった。
(血だ……)
拭き取りきれなかった、人間の血。浩二の、血。
「ヒッ……!」
私は短い悲鳴を上げ、その工具をテーブルの上に放り出した。ガチャン!という重い金属音が、静かな書斎に響き渡る。
間違いない。これが凶器だ。
隆史は、私の愛人をこの刃でズタズタに切り裂き、殺害したその足で家に帰り、この凶器を綺麗に拭き上げて、子供たちが遊ぶこの家の中に平然と保管しているのだ。
そして、何食わぬ顔で私を抱きしめ、愛を囁いている。
「……狂ってる。どうかしているわ……!」
私は後ずさり、キャビネットに背中を打ち付けた。
あの優しすぎる笑顔の裏に隠された、底なしの狂気と冷酷な殺意。彼にとって私は、裏切りの証拠をすべて握られた上で、いつ首を切り裂かれるか分からない「生かされているだけの獲物」でしかなかったのだ。
書斎の薄暗い影が、すべて隆史の巨大な手に姿を変え、私の首をギリギリと締め上げてくるような錯覚に陥る。
私はその場にへたり込み、音を立てずに泣きじゃくりながら、逃げ場のない完全な地獄の底で、ただ恐怖に身をよじらせていた。
+++
その日の夜。
天井のバカラのシャンデリアが、広大なダイニングルームをまばゆいほどに照らし出していた。
出張シェフが腕を振るった豪勢なディナーが、長大なマホガニーのテーブルに所狭しと並べられている。今日のメインディッシュは、見事な赤身を残した分厚いローストビーフの塊だった。
「さあ、パパの可愛い天使たち。いっぱいお食べ。大きくなるんだぞ」
隆史は満面の、心底幸せそうな笑顔を浮かべながら、手にした鋭利なカービングナイフを肉の塊に突き立てた。
スウッ、と。
刃が見事に研ぎ澄まされたナイフは、一切の抵抗もなく分厚い肉を滑らかに切り裂いていく。切り口からは、赤黒い肉汁がタラタラと滴り落ち、真っ白な大皿を血のように赤く染めた。
「やったー! お肉だ!」
「僕が先! 僕がいっぱい食べるんだ!」
ハイチェアに座った長男の鳳太と三男の創太が、フォークを振り回して下品な声を上げる。その野蛮で粗暴な振る舞い、そして成長するにつれてはっきりと現れてきた鋭い目つきは、まぎれもなく、あの薄汚れたアパートで殺された江上浩二のものだった。
(ああ……)
私は、自分の席で冷や汗にまみれながら、フォークを握る手をガタガタと震わせていた。
隆史は、浩二の血を引くその二人の頭を愛おしそうに撫で、切り分けた赤い肉をたっぷりと皿に取り分けてやっている。
『今日も一日、天使たちの世話をありがとう。本当に、君と子供たちがいるこの家は、僕にとって天国だよ』
帰宅した時に彼が私に向けた、あの底知れぬ底無しの優しい笑顔が、脳裏でグニャリと歪む。
書斎で見つけた、血のついたあの特殊な工具。
彼はあの夜、浩二のアジトに乗り込み、このローストビーフを切り裂くのと同じように、なんの躊躇いもなく浩二の肉体を切り刻んだのだ。そして、返り血を洗い流し、今こうして、自分が殺した男の種である子供たちに笑顔で肉を振る舞っている。
(違う……これは、食事なんかじゃない)
隆史のなめらかなナイフ捌きを見つめていると、私の視界が黒く明滅し始めた。
彼は今、この肉を切りながら、頭の中で私とこの子供たちをどう切り刻むかシミュレーションしているのではないか。
『次は、お前たちの番だぞ』と。
彼の笑顔の下に隠された、凄惨なサイコパスの囁きが聞こえた気がした。
「……っ、栄子? どうしたんだい、顔色が悪いよ。お肉、嫌いだったかな?」
不意に隆史が私を覗き込み、ナイフを持ったまま首を傾げた。その刃先が、ほんのわずかに私の方を向いている。
「ヒッ……!」
喉の奥から奇妙な音が漏れた。胃袋が雑巾のように強く絞り上げられ、どろりとした酸っぱいものが喉元までせり上がってくる。
「ご、ごめんなさい……ちょっと、気分が……」
私は椅子を乱暴に蹴り倒すようにして立ち上がり、口元を両手で強く押さえながら、逃げるようにダイニングから駆け出した。
「栄子!? 大丈夫かい!?」
背後から響く夫の心配そうな声が、私には死神の呼び声にしか聞こえなかった。




