第19話 見えない鎖
横浜の一等地にある、外資系高級ホテルのVIP専用ラウンジ。
クリスタルガラスのシャンデリアが眩い光を放ち、静かに流れるクラシック音楽が優雅な空間を演出している。私は特注のふかふかとしたソファに深く腰を沈め、冷えたペリエのグラスを指先で弄んでいた。
昨夜、夫・隆史の書斎で「子供たちのDNA鑑定書」を見つけてからの私は、完全に生きた心地がしていなかった。あの底なしのお人好しである夫が、三つ子のうち二人が他人の子であるという絶望的な真実を知りながら、私に対して微塵も態度を変えずに「愛している」と微笑みかけてきている。
その事実がもたらす悍ましい恐怖から逃れるため、私は「買い物の下見」と称して家を飛び出し、この安全で華やかな空間へと逃げ込んできたのだ。
「……落ち着きなさい、私。隆史は何も言ってこない。向こうが今まで通りを望むのなら、それに答えて上手くやればいいだけよ」
誰に聞かせるわけでもない言葉を微かに唇に乗せ、私は乱れたメイクを直そうと、傍らに置いていたシャネルのマトラッセに手を伸ばした。
バッグのフラップを開け、内側のポケットに指を入れる。コンパクトを取り出そうとしたその時だった。
私の綺麗に整えられたネイルの指先が、ポケットの裏地の奥で、不自然に固い何かに触れた。
(……何これ?)
リップスティックでもない、コインでもない。平たくて丸い、プラスチックのような感触。
私は眉をひそめ、さらに指の腹を押し込んだ。それはただポケットに入っていたわけではない。内張りの布地のごく僅かなほつれを利用し、バッグの縫い目のさらに奥深くへと、意図的に隠すようにギュッと押し込まれていたのだ。
嫌な汗が手のひらに滲む。私は布地を無理やり広げ、爪を立ててその異物を引っ張り出した。
出てきたのは、真っ白で五百円玉ほどの大きさの、薄い円盤状のプラスチック製デバイスだった。中央には、見覚えのあるリンゴのマークと銀色の金属パーツが輝いている。
「……っ!」
息が止まった。
忘れ物防止タグだ。
スマートフォンと連動し、GPSで数センチの狂いもなく現在位置を特定し、リアルタイムで持ち主の元へ位置情報を送信し続ける追跡装置。
全身の血が、一気に足元へと流れ落ちていく音が聞こえた気がした。
私はいつから、これを持たされていた?
このシャネルのバッグは、私が外出する際に必ず持ち歩く一番のお気に入りだ。もし、ずっと前からこれが縫い目の奥に仕込まれていたとしたら。
私が都内のエステに行くと言って嘘をつき、あの裏社会の男、江上浩二の薄汚れた雑居ビルのアパートへと通い詰めていたあの数ヶ月間。私の現在位置は、このタグを通じて、誰かのスマートフォンに克明に記録され続けていたということになる。
仕掛けたのは誰か。考えるまでもない。
私を異常なまでに愛し、私のすべてを把握したがる狂気の夫、隆史しかいない。
シャンデリアの煌めきも、クラシックの優雅な旋律も、一瞬にして色褪せ、どす黒いノイズに変わった。
この完璧で裕福な生活は、安全な鳥籠などではなかった。私はずっと、彼の手のひらの上で、見えないGPSの鎖に繋がれたまま滑稽に踊らされていたのだ。
手の中にある白いタグが、急に灼熱の鉄塊のように感じられ、私はそれをテーブルの上に放り投げた。ガタガタと震える両手で口元を覆い、周囲の富裕層の客たちの奇異の目も気にせず、私は浅く、荒い呼吸を繰り返した。
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ラウンジから逃げるように飛び出した私は、待たせていた黒塗りの高級ハイヤーの後部座席に転がり込んだ。
「奥様、ご自宅へお戻りになりますか?」
「ええ……っ、出して。早く!」
白手袋をした運転手が怪訝そうな顔でバックミラー越しに私を見たが、私は構わず窓枠にしがみついた。
滑るように走り出した車内で、私の脳味噌は沸騰するほどの勢いで過去の記憶を遡っていた。
忘れ物防止タグ。浩二のアジト。DNA鑑定書。
そして――浩二が殺された日のこと。
ニュースキャスターの沈痛な声が、耳の奥で鮮明に蘇る。
『昨夜未明、東京都内の雑居ビルの一室で、男性が血を流して倒れているのが発見されました……』
浩二が殺害された、あの夜。
そうだ。あの日の夕方、隆史はエントランスで私を抱きしめ、こう言っていたではないか。
『今日は都内の重要なクライアントと会食なんだ。遅くなるし、お酒も入るから、向こうのホテルに泊まって明日の昼過ぎに帰るよ』
(ああ……っ!)
雷に打たれたような衝撃が、私の背筋を貫いた。
偶然ではない。あれは完璧なアリバイ作りだったのだ。
隆史は、私がエステと言いながらどこか別の場所へ行っていることを、あのタグの位置情報でとっくに知っていた。そして、その場所がどう見ても裏社会のチンピラが住むような安アパートであることを確認し、私がそこで別の男と体を重ねているという事実を掴んでいた。
さらには、三つ子のうち二人のDNAが自分とは一致しないという鑑定書まで握りしめ、すべての真実を知り尽くしていた。
その上で、彼は「都内で宿泊する」という口実を作り、深夜、浩二のアジトへと向かったのだ。
妻の愛人を殺すために。
点と線が、悍ましいほどの一直線に繋がり、一つの黒い絵を完成させていく。
人を疑うことを知らないお人好しの夫。私をガラス細工のように扱い、子供たちを奇跡の天使だと涙を流して崇め奉る、あの底なしに優しい隆史が。
妻を汚した底辺の男の部屋に押し入り、返り血を浴びながら、相手の命を奪ったというのか。
「うそ……そんな、そんなこと……」
私は本革のシートに崩れ落ち、自身の両腕を爪が食い込むほど強く抱きしめた。
もしそれが事実だとしたら、昨日、私の帝王切開の傷跡にねっとりとキスを落とし、「奇跡の通り道だ」と涙ぐんでいたあの男は、一体どんな狂気を腹の底に飼っているというのだ。
殺される。
次は私が殺される。私の不貞の証拠であり、あの殺した男の血を引く鳳太と創太も、あの異常な愛情が憎悪に反転した瞬間、容赦なく切り刻まれるに違いない。
極限の恐怖で胃液がせり上がり、私は車内で嘔吐しそうになるのを必死で飲み込んだ。




