第17話 傷跡
浩二が死んだというニュースを見てから数週間後。
私は新居の豪奢なバスルームで、磨き上げられた巨大な鏡に映る全裸の自分を見つめていた。
妊娠によって無惨に崩れたプロポーションは、毎日の過酷なパーソナルトレーニングと高額なエステのおかげで、ようやく妊娠前の完璧な曲線を取り戻しつつあった。
しかし、下腹部だけはどうにもならない。
恥骨のすぐ上。ビキニラインに沿って真横に引かれた、およそ十五センチにも及ぶ帝王切開の傷跡。赤黒く盛り上がっていた時期は過ぎたものの、引きつれたような白い線は、なめらかな肌の上で醜い異物として永遠に刻み込まれている。
これを見るたびに、腸が煮えくり返るような屈辱を感じる。
だが、同時に私の脳裏には、ある男との強烈な記憶がフラッシュバックしていた。
——江上浩二。
出産後、体力がようやく回復し始めた頃。私はどうしても、あの薄汚れたアパートの匂いと、私を雑に扱う野蛮な腕力が忘れられなかった。
隆史の「神聖な母体」を扱うような、腫れ物に触れる優しさに窒息しそうだった私は、完璧な妻の仮面の下で発狂寸前だった。理性のブレーキは完全に壊れていた。私は「産後の骨盤矯正に行く」と夫を騙し、再びあの男の部屋へと向かったのだ。
久しぶりに重ねた浩二との体は、私の生涯で最も熱く、理性を焼き尽くすほどに燃え上がった。
シーツが擦れる音と、むせ返るような汗の匂い。
その最中、浩二の荒々しい指が、まだ赤みを帯びていた私の下腹部の傷跡を不躾に撫でた。
『なんだこの傷。腹ぁかっさばいたのか?』
浩二は私の顔を下品に覗き込み、鼻で笑った。
私は心臓が跳ねるのを必死に抑えながら、白状した。
『ええ。……子供を、産んだのよ』
その瞬間、浩二が『もしかして俺のガキか?』と疑うのではないかと、全身の毛穴から冷たい汗が吹き出した。当時の私は、お腹の三つ子が「隆史の子か、浩二の子か」のどちらかだと思い込んでおり、まだ父親が誰なのか確証を持っていなかった。
だからこそ、私は震える声に必死で余裕を持たせ、先手を打って嘘をついた。
『念のために内緒でDNA検査をしたけど、三人とも100パーセント、夫の子供だったわ。安心した?』
しかし、私のその張り詰めた嘘に対する浩二の反応は、あまりにも拍子抜けするものだった。
『あっそ。安心したのはそっちだろ? 金持ちの旦那のガキだろうが、俺のガキだろうが、俺はどうでもいいよ』
浩二は一切の興味を失ったように言い捨てると、再び乱暴に私の体にのしかかってきた。
『お前の家庭の事情なんか知るか。俺はただ、お前のこの中と相性がいいから抱いてるだけだ』
あの男は、最初から私の人生になど微塵も関心がなかったのだ。ただ、乱暴に女の肉体を貪れればそれでいいだけの、底辺のケダモノ。
その無関心さが、当時の私にどれほどの安堵を与えたことか。
鏡の前で、私はふっと冷たい笑みをこぼした。
あの浩二はもう、この世にはいない。私の人生を脅かす可能性のあった唯一の時限爆弾は、見知らぬ者の手によって永遠に消え去ったのだ。
夜になれば、お人好しの夫である隆史は、私のこの醜い十五センチの白い傷跡に、涙ぐみながら熱烈なキスを落とす。
『三人の天使たちが通ってきた、奇跡の通り道だ。世界一美しくて、尊い勲章だよ。栄子、愛している……』
狂信者のように私の傷跡を崇める夫のつむじを見下ろしながら、私はいつも嘲笑を噛み殺している。
(無垢な男。この傷跡は、私があなたを完璧に騙し切り、この裕福な生活を永遠に手に入れた『完全勝利の証』よ)
私はもう、何も恐れるものはない。
最高の気分でバスローブを羽織り、優雅な足取りでバスルームを後にした。
+++
数日後の、穏やかな午前中。
子供たちは庭で遊んでいるのか、家の中は静まり返っていた。
私はエステサロンの予約時間を確認しながら、広大な廊下をリビングに向かって歩いていた。
ふと、重厚なマホガニーの扉で仕切られた、隆史の書斎の前を通りかかった時のことだ。普段ならしっかりと閉まっているはずの扉が、わずかに数センチほど開いていた。
(あら……?)
隆史は自身の聖域である書斎に他人が入るのを嫌う。掃除も専属の業者が入る時以外は、極力触らせないようにしていたはずだ。
私は訝しげに眉をひそめ、そっと扉の隙間から中を覗き込んだ。
薄暗い書斎の中にいたのは、ベビーシッターの舞子だった。彼女は、隆史の重要な書類がしまわれているアンティーク調のキャビネットの前にしゃがみ込み、引き出しのあたりで何かをゴソゴソと動かしているようだった。
「あなた、そこで何をしているの?」
私が冷たく、少し高い声を張り上げると、舞子はビクッと肩を跳ね上がらせて振り返った。
「あ……っ、奥様……!」
化粧っ気のない地味な顔が、明らかな狼狽で青ざめている。
「夫の書斎には勝手に入らないように言っているはずよ。掃除なら頼んでいないわ」
私が腕を組み、底辺の女を見下すような冷たい視線を浴びせると、舞子は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「も、申し訳ありません……っ! その、先ほどまで子供たちと家の中で『かくれんぼ』をしておりまして……。もしかしたら、このお部屋に隠れているのではないかと思い、つい探してしまったのです」
舞子の声は微かに震えていた。
「かくれんぼ?」
私は鼻で笑った。
「あの粗暴な子たちが、こんな静かな部屋で大人しく隠れているわけないでしょう。言い訳はいいから、早く出て行きなさい。夫の物を勝手に触って、何か無くなったりしたらあなたの責任になるのよ」
「はい……! 本当に、申し訳ございませんでした……!」
舞子は何度も頭を下げながら、逃げるように書斎から小走りで出て行った。
「まったく、気が利かないシッターね」
私は忌々しそうに舌打ちをすると、彼女が書斎で何をしていたのかなんてことには一秒たりとも興味を持たず、すぐに思考から切り捨てた。
どうせ、金持ちの家財道具を珍しがって覗き見ていた程度だろう。底辺の人間が考えることなど、たかが知れている。
完璧な勝利の余韻に浸っていた私は、この見すぼらしいシッターが、私の築き上げた黄金の鳥籠で、少しでも不穏な事をしようものなら、すぐに切ればいいだけだと、気には留めなかった。




