第16話 見えざる神の残酷な悪意の証明
出産の日。
私は県内でも有数の、富裕層や芸能人御用達の高級産婦人科クリニックの特別個室(VIPルーム)のベッドに横たわっていた。
大理石の床に、アンティーク調の高級家具。まるで五つ星ホテルのスイートルームのようなその部屋で、私は無機質な手術着に着替えさせられていた。
三つ子という多胎妊娠のため、出産は計画的な帝王切開で行われる。硬膜外麻酔の冷たい管が背中から通され、下半身の感覚が完全に失われていくのを感じながら、私はストレッチャーで手術室へと運ばれた。
煌々《こうこう》と照らす無影灯の下、緑色の布で視界の半分が遮られている。メスが入る痛みは全くないが、私のお腹を何かが強く押し引きする、内臓をかき回されるような不快な引っ張られ感だけが、何度も波のように押し寄せてきた。
(ああ……私の体が、ただの入れ物として切り開かれていく……)
吐き気と恐怖で冷や汗を流す私の耳に、やがて、けたたましい産声が飛び込んできた。
「一人目、元気な男の子ですよ!」
医師の弾んだ声と共に、オギャア、オギャアと力強い鳴き声が手術室に響き渡る。
隆史の要望通り、『鳳太』と名付けられることになった長男だ。一卵性の二人のうちの、一人目。
息をつく暇もなく、再び私のお腹が大きく揺さぶられる。
「続いて二人目、男の子です!」
少しだけ控えめな、しかし確かな産声。二卵性のもう一つの部屋から取り出された次男。彼が『蓮太』だ。
そして最後。再び内臓が強く引かれる感覚の後、ひときわ甲高く、鼓膜を劈くような泣き声が上がった。
「三人目も男の子! 母子ともに無事です、おめでとうございます!」
一卵性のもう一人。三男の『創太』が、この世に産み落とされた瞬間だった。
鳳太、蓮太、創太。
『ほう・れん・そう』の順番。
この時の私は、麻酔の副作用による震えと極度の疲労の中で、ただただ「無事に終わった」という安堵と、この三人の赤ん坊が『隆史の子供であってほしい』という強迫観念めいた祈りだけを頭の中で繰り返していた。
一卵性の『鳳太』。二卵性の『蓮太』。そして一卵性の『創太』。
この産まれた順番そのものが、数年後、あの裏社会の男の血に、夫の血がサンドウィッチにされるという、見えざる神の残酷な悪意の証明になることなど、知る由もなかった。
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数時間後。VIP専用の広大なリカバリールーム。
麻酔の切れ目と、腹部を切り裂かれた激しい疲労感で、私は身動き一つ取れずにベッドに沈み込んでいた。髪は汗で顔に張り付き、完璧に手入れされていた肌はべたつき濁り、目はひどく虚ろだった。
私のベッドのすぐ脇には、透明な三つの新生児用コットが並べられ、皺くちゃで猿のように赤い顔をした三つの命が、それぞれ小さな息を立てて眠っている。
その三つのコットの前に膝をつき、周囲の医師や看護師の目も憚らずに、大声を上げて泣き叫んでいる男がいた。夫の隆史だ。
「ああ……っ、ああぁっ! 神様、ありがとうございます! 僕たちの天使だ! 僕の愛する人が、今日いっぺんに三人も増えたんだ!」
隆史は狂ったように歓喜の涙をボロボロと流し、ガラス越しに赤ん坊たちを撫で回している。そして、這いずるように私のベッドサイドに近づくと、点滴の繋がれた私の手を両手で包み込み、何度も何度も熱烈なキスを落とした。
「栄子、君は偉大だ! 僕の人生のすべてだ! 神様からの最高のプレゼントを産んでくれた君を、僕は一生、何に代えても守り抜くからね!」
狂気じみた歓喜を爆発させる隆史。その姿は、純粋な愛を通り越し、何かの新興宗教の狂信者のようにも見えた。
(うるさい……頭が、痛い……)
大袈裟に泣き喚く夫の声を遠くで聞きながら、私は一切の感情が抜け落ちた冷たい目で、横たわる三つの赤い肉塊を見つめていた。
可愛いだとか、愛おしいだとか、そんな母親らしい感情は一ミリも湧いてこない。
あるのはただ、底知れぬ恐怖だけだった。
(この子たちの顔は、将来、どちらの男に似るの……?)
もし、成長するにつれて、あの下品で粗暴な浩二の顔立ちが現れたら。
狂喜の涙を流して私を崇め奉るこのお人好しの夫が、もしその事実に気づいてしまったら。
病室の窓から差し込む明るい日差しとは裏腹に、私と隆史の間には、決して交わることのない決定的な「温度差」と、薄ら寒い地獄の予感が横たわっていた。
+++
——そして、時間は現在へと戻る。
「ママー! 絵本読んで!」
「僕のロボットが先だろ! 貸せよ!」
「やだ! パパー!」
神奈川の高台にある白亜の豪邸。広大なリビングルームには、四歳になった三つ子たちの騒がしい声が響き渡っている。
長男の鳳太と、三男の創太が、乱暴に玩具を奪い合って取っ組み合いの喧嘩をしている。そのすぐ傍らで、次男の蓮太が怯えたように耳を塞ぎ、隆史に泣きついている。
私は、特注の高級ソファに深く腰掛けながら、その光景を氷のように冷たい視線で見つめていた。
ピルユーザー妊娠確率、〇・三パーセント。
三つ子が生まれる確率、〇・〇一パーセント。
そして、浩二と隆史、別々の男の精子で同時に受精する異父過排卵受精の確率、〇・〇〇〇一パーセント。
三つ同時に起こる確率、およそ三兆三三三三億分の一。
DNA鑑定が突きつけた、絶対的な絶望。
一卵性の鳳太と創太は、浩二の血を引いている。そして、その二人に挟まれて産まれてきた二卵性の蓮太だけが、隆史の血を引いているのだ。
長男(浩二)――次男(隆史)――三男(浩二)。
「ほうれんそう」というあの滑稽な名付けが、今となっては私を嘲笑う呪いの呪文にしか聞こえない。
「こらこら、二人とも。家の中では走らないって約束しただろう? 栄子、大丈夫かい? 騒がしくて疲れていないかい?」
隆史は蓮太を優しく抱き上げながら、私に向かって甘く、そして異常なほどに過保護な視線を向けた。
念願の子供の誕生以降、隆史の私に対する執着は、以前にも増して肥大化していた。
彼は私を「三人の奇跡の天使を産んだ、美しく神聖な母体」として完全に神格化している。外出も、食事も、私の行動のすべてが彼の重すぎる愛の監視下に置かれ、少しでも体調を崩せば大騒ぎをして何人もの医師を家に呼ぼうとする。
「……ええ、平気よ。男の子だもの、元気な証拠だわ」
私は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に動かし、完璧な妻の微笑みを顔に貼り付けた。
息が詰まる。窒息しそうだ。
成長するにつれ、鳳太と創太の顔には、あの浩二の野蛮で鋭い目つきがはっきりと現れ始めている。いつ、このお人好しの夫がその「違い」に決定的な疑いを抱くか。見えない真綿でじわじわと首を絞められるような恐怖が、毎日、毎秒、私の精神を削り取っていく。
浩二はすでに死んだ。秘密を暴く人間はもういない。
あとは私が、この完璧に狂った鳥籠の中で、一生、狂人のような夫の愛情を受け止め続け、嘘をつき通すだけだ。
私は膝の上で指の関節が白くなるほど強く手を握りしめ、自分を取り囲むこの美しくも悍ましい地獄を、ただ黙って見つめ続けていた。




