第13話 予期せぬ妊娠
初夏の陽射しが、美しく刈り込まれた本宅の庭に降り注いでいる。
純白のパラソルの下で、私は完璧な笑みを顔に貼り付けながら、最高級のダージリンティーを口に運んでいた。
向かいには、好々爺とした義父と、抜け目ない目を光らせる姑が座っている。週に一度の、息の詰まるようなお茶会の時間だ。
「栄子さん、最近少しお顔の色が優れないようだけれど。夜遊び……いえ、エステやジム通いでお疲れなんじゃないの?」
姑が、ティーカップの縁を指でなぞりながら、チクリと嫌味を刺してくる。
「お義母様、ご心配をおかけして申し訳ありません。少し、寝不足が続いているだけで……」
私は優雅に小首を傾げ、完璧な令嬢の声音で躱した。
実際、ここ数日は妙な気怠さと、胃の奥から込み上げてくるような微かな吐き気が続いていた。だが、それは単なる夏の疲れか、あるいは浩二との激しすぎる情事の反動だろうと高を括っていた。
「隆史は栄子さんのことが心配でたまらないみたいだからね。あまり無理をしないように」
義父が温和な声でフォローを入れる。
「はい、ありがとうございます。隆史さんにはいつも……」
言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
唐突に、視界がぐにゃりと歪んだ。
まるで遊園地のコーヒーカップに放り込まれたかのような、強烈なめまい。同時に、胃の底に沈んでいた鉛のような吐き気が、一気に喉元までせり上がってきた。
(え……? 何、これ……)
全身からサッと血の気が引いていくのがわかる。指先が痺れ、持っていたマイセンのティーカップが手から滑り落ちた。
ガシャンッ!
硬い音を立てて、高級な磁器がテラスのタイルで粉々に砕け散る。
「栄子さん!?」
「どうしたんだい、栄子さん!」
姑の鋭い悲鳴と、義父の慌てふためく声が、遠くの膜越しのようにくぐもって聞こえた。
私は何事かを言い繕おうと口を開いたが、声帯がうまく震えない。景色がぐるぐると回転し、青い空と白いパラソルが混ざり合って黒く塗りつぶされていく。
(やだ……こんなところで、倒れるわけには……)
完璧な妻としての体裁が崩れる。その焦りとは裏腹に、私の体は糸の切れた操り人形のように重力を失い、冷たいタイルの上へと崩れ落ちた。
「誰か! 早く救急車を!」
義父の悲痛な叫び声を最後に、私の意識は深い暗闇の中へと沈んでいった。
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「……栄子、栄子……っ!」
ひどく甘ったるく、そして焦燥に満ちた声で名前を呼ばれ、私は重い瞼をゆっくりと押し上げた。
鼻腔を突くのは、消毒液の冷たい匂い。視界が徐々に焦点を結ぶと、真っ白な天井と、点滴の管が繋がれた自分の腕が目に入った。
そしてベッドのすぐ脇には、涙で顔をくしゃくしゃに濡らした夫の隆史が、私の右手を両手で包み込むようにきつく握りしめていた。その力は、まるで私が再び消えてしまわないようにと繋ぎ止めるような、息苦しいほどの強さだった。
「たか、し……さん……?」
「ああ、栄子! よかった、本当に気がついてよかった……っ!」
隆史は私の顔を見るなり、子供のように声を上げて泣き崩れた。その後ろには、安堵の表情を浮かべる義父と、青ざめた顔の姑が立っている。
ここは、病院の個室らしかった。
(私……義実家のお茶会で倒れて……)
薄れゆく記憶が蘇ってくる。
「ごめんなさい、私……急に貧血みたいになって……」
私が掠れた声で謝罪しようとすると、病室のドアが開き、白衣を着た初老の医師が入ってきた。
「気がつかれましたね。矢絡深さん、ご気分はいかがですか?」
「はい……少し、頭がぼんやりしますが……。ただの過労でしょうか」
私が尋ねると、医師はカルテから目を上げ、朗らかな笑みを浮かべた。
「いえいえ、過労ではありませんよ。おめでとうございます。妊娠されています。現在、おおよそ八週目といったところですね。初期のつわりと貧血が重なって、お倒れになったのでしょう」
その瞬間、病室の空気が完全に静止した。
「……え?」
私の口から、間抜けな音が漏れた。
「に、妊娠……? 栄子が、僕たちの子供を……!?」
隆史が弾かれたように立ち上がり、目を限界まで見開いて医師に詰め寄った。
「はい。母子ともに健康ですよ。ただ、初期は不安定ですから、どうか安静になさってくださいね」
「ああ……ああ……っ! 神様、ありがとうございます……!」
隆史は再び私のベッドサイドに崩れ落ち、今度は歓喜の涙をボロボロとこぼしながら、私の手を顔に押し当ててすり泣き始めた。
「栄子、ありがとう! 僕たちの天使だ! 君が僕の妻で、こうして赤ちゃんまで授けてくれるなんて……僕は世界一幸せな男だよ!」
「まあ、矢絡深家に待望の跡取りが……! でかしたぞ、栄子さん!」
義父も興奮した様子で手を叩き、姑すらもハンカチで目元を押さえている。
誰もが、手放しでこの「奇跡」を祝福していた。
しかし、その狂喜乱舞の中心にいる私の頭の中は、真っ白に漂白されていた。
(妊娠……? 私が?)
あり得ない。絶対にあり得ない。
私は結婚以来、毎晩欠かさずピルを飲んでいた。あの煌びやかなサプリメントケースに入れ替えて、一日たりとも飲み忘れたことなどなかったはずだ。あのピルを飲んでいて妊娠するなど、あってはならない事。
(じゃあ、なんで……!? ピルが効かなかったの!? 確率がゼロではないとは聞いていたけれど……あんまりだわ)
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく警鐘を鳴らし始めた。
全身から血の気が引き、指先が氷のように冷たくなっていく。
完璧にコントロールしていたはずの私の人生に、とてつもない巨大な「異物」が入り込んでしまった。
さらに私の精神を限界まで追い詰めたのは、この事実が『今、この最悪のタイミングで発覚してしまった』という絶望的な状況だった。
(もし……もし義父たちの前で倒れて救急車で運ばれたりしなければ。ただの体調不良だと思って、一人でこっそりクリニックを受診していれば……!)
そうすれば、隆史にバレる前に堕胎して、すべてを無かったことにできてたはずなのだ。
しかし、今はもう遅い。
矢絡深家の全員が、私が妊娠したことを知ってしまった。私を異常なまでに愛し、子供を熱望していた隆史が、この命を手放すことなど絶対に許すはずがない。
私は、自らが作ったこの黄金の鳥籠の中に、完全に、そして永遠に閉じ込められてしまったのだ。
「栄子、本当にありがとう……。僕、君と子供のためなら、なんだってするよ。これからもっともっと、君を大切にするからね」
私の頬にすり寄る隆史の、甘ったるく重すぎる愛情が、今はただの呪いのように感じられた。
私は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に動かし、この世で最も幸福な妻の仮面を顔に貼り付けた。
「ええ……。私も、とても嬉しいわ、あなた」
震える声でそう答えながら、私の脳裏には、ある恐ろしい疑問が黒いインクのように広がっていた。
(このお腹の子は……一体、どっちの子なの?)
安全で単調な夫の隆史か。それとも、私を野蛮に抱き潰した裏社会の男、浩二か。
もし浩二の子だったら?
もしその事実が、この人を疑うことを知らない夫にバレたら?
私は絶望の淵に立たされたまま、見えない真綿で首を絞められるような息苦しさに、ただ震え続けることしかできなかった。




