第14話 溺愛ハラスメント
隆史と義父母が、入院手続きと親戚への報告のために病室を出て行った。
パタン、と重い防音扉が閉まった瞬間、私は顔に貼り付けていた「幸福なプレママ」の仮面を乱暴に引き剥がした。
「……っ、ふざけないでよ!」
声を出さずに叫び、真っ白なシーツを両手で力任せに握りしめる。指の関節が白くなるほど力を込めても、腹の底から湧き上がる激しい怒りと後悔は収まらなかった。
なんで、よりによって義理の両親の前で倒れたりしたのか。
少しの体調不良だと甘く見ていた過去の自分を殴り殺してやりたい。もし、誰にも見られずに一人でこっそりクリニックを受診していれば、隆史にバレる前に堕胎して、何事もなかったかのように完璧な生活に戻れていたはずだ。
「どうして……毎日欠かさずピルを飲んでいたのに……!」
ギリッと奥歯を噛み締める。偽装したサプリメントケースの中で、あの白い錠剤は確実に私の妊娠を防いでくれる絶対の盾だったはずなのに。
その時、サイドテーブルに置いていた私のスマートフォンが、ブブッと短く震えた。
画面に表示されたのは、『江上精肉店(浩二の隠語)』の文字。
ビクッと肩が跳ねる。恐る恐る画面をタップすると、下品で無神経なメッセージが表示された。
『今夜はどうする? 金持ちの旦那が寝たら来いよ。お前の肉を仕込んでやるよ』
その粗暴な文面を見た瞬間、私の胃袋が雑巾のように強く絞り上げられた。
(気持ち悪い……っ)
今までなら、私の退屈を打ち破る最高のスパイスだったはずの彼の誘いが、今はただの致死毒にしか思えない。
もし、私のお腹の中に芽生えたこの得体の知れない命が、あの薄汚れたアパートで乱暴に抱き潰された時の、あの男の種だったとしたら?
想像しただけで、吐き気で視界がチカチカと点滅した。
浩二に、妊娠の事実など絶対に知られてはならない。あの男は金に汚い。もし自分の子供だと疑えば、それをネタに私を脅迫し、この完璧で裕福な人生から私を引きずり下ろすに決まっている。
私は震える指でフリック入力し、短い返信を打ち込んだ。
『最近、夫が私の外出を怪しんでいるの。しばらく会えないわ。もう連絡もしないで』
送信ボタンを押す。数秒も経たないうちに既読がつき、返信が返ってきた。
『あっそ。じゃあな。他の女探すから、二度と泣きついてくんなよ』
一切の執着も、未練もない、短いテキスト。
彼にとって、私は数多くいる遊び相手の女の一人に過ぎなかったのだ。普段なら私のプライドを逆撫でするその薄情な態度が、今この瞬間だけは、神の救いのように思えた。
(正直、私の野生を解放してくれる彼には未練はある。でも、これでよかった……。これで、あの男との繋がりは切れた)
安堵の息を長く吐き出し、私はスマートフォンをベッドに放り投げた。
あとは、このお腹の子がどちらの子であろうと、隆史の子であると言い張り、完璧な妻として出産を乗り切るしかない。私の退路は、完全に断たれていた。
+++
それから数ヶ月。
私の体は、醜く、そして確実に変化していった。
完璧に保っていたプロポーションは崩れ去り、腹は不格好に膨れ上がり、妊娠線という消えない傷跡が肌に刻まれていく。鏡を見るたびに、絶望と自己嫌悪で発狂しそうになった。
しかし、そんな私の地獄など露知らず、矢絡深家は狂喜に包まれていた。
「栄子! 駄目じゃないか、そんな重いものを持っちゃ!」
ある日の午後、私がオットマンを窓辺へ移動させようと持ち上げようとしただけで、隆史が血相を変えて飛んできた。
「ただのオットマンよ、あなた。そんなに大げさな……」
「大げさなものか! 君の体はもう君一人だけのものじゃないんだよ。僕たちの、大事な天使がいるんだから」
隆史は私の手からオットマンを奪い取り、過保護すぎるほどの手つきで私をソファへと座らせた。
妊娠が発覚して以来、隆史の私に対する扱いは、異常なまでのレベルに達していた。
階段を降りる時は必ず手を引き、床に落ちたものを拾うことすら許されない。食事はすべて専属のシェフが徹底した栄養管理のもとに作り、外出は検診の時のみ、それも必ず隆史が運転する最高級のセダンで送迎される。
「ほら、足元が冷えるだろう。これをかけて」
隆史は、海外からわざわざ取り寄せたという、何万円もする最高級カシミヤのブランケットを私の膝に優しくかけた。
「……ありがとう、あなた。いつも優しくしてくれて」
私は完璧な微笑みを顔に貼り付けながら、カシミヤの柔らかな感触の下で、拳をきつく握りしめていた。
息が詰まる。窒息しそうだ。
隆史の愛情は、私を完全にこの豪邸という鳥籠の中に縛り付けていた。彼の目には、もはや「一人の女性としての私」は映っていない。彼が崇めているのは、「自身の跡取りを宿した神聖な母体」としての私だけだ。
「あ、今、動いたよ! 栄子、ほら!」
隆史が私のお腹に耳を当て、少年のように目を輝かせる。
その無邪気な笑顔を見るたびに、私の心の奥底にどす黒い恐怖が渦巻いた。
もし、この男が真実を知ったらどうなるだろうか。
これほどまでに純粋で、狂気じみた愛情を注いでいるこのお腹の命が、もしあの下劣な男の血を引いていたとしたら。
(殺される……)
この深く重い愛情が、そのまま反転して強烈な憎悪に変わった時、私は確実に破滅する。
「元気な子が産まれるといいね、栄子」
私のお腹を愛おしそうに撫でる隆史の温かい手。
それは私にとって、いつでも私の喉元を掻き切ることのできる、鋭い刃物のように冷たく感じられた。
逃げ場のない完璧な檻の中で、私はただ一人、見えない時限爆弾のカウントダウンに怯えながら、長い十月十日を耐え忍ぶことしかできなかった。




