第12話 退屈を焼き尽くす野蛮な熱
その日の夕方。都内の完全個室の高級エステサロンで、全身を最高級のオイルで磨き上げられた私は、そのまま真っ直ぐに神奈川の白亜の豪邸へ帰る気にはなれなかった。
家に帰れば、またあの息の詰まるような「完璧な妻」の仮面を被らなければならない。お人好しで優しすぎる夫の、重く甘ったるい愛情を受け止めるだけの退屈な夜が待っている。
私は無意識のうちに、タクシーではなく、都内の繁華街の裏路地へと足を踏み入れていた。
ネオンサインが瞬き、少し饐えた匂いが漂う通り。私が普段身を置いている富裕層の世界とは無縁の、薄汚れ、ざわついた空間。私は適当な、少し柄の悪そうな地下のバーに入り、カウンターの隅で強いカクテルをあおっていた。
シャンデリアも、バカラのグラスもない。あるのは、紫煙と安酒の匂いだけ。
しかし、その粗野な空気が、今の私には妙に心地よかった。
「……おい、ふざけてんのか?」
突然、店の奥のボックス席から、ドスを利かせた低い怒声が響いた。
視線を向けると、ガタイのいい男が、向かいに座っていた別の客の胸ぐらを乱暴に掴み上げていた。柄の悪いチンピラ同士のトラブルのようだ。周囲の客たちが怯えて目を逸らす中、私はグラスを片手に、その光景を冷ややかに、しかし奇妙な高揚感を持って観察していた。
「金がねえなら、最初からそう言えよ。舐めた口きいてると、その舌、切り落とすぞ」
男はそう吐き捨てると、懐から無造作に一つの刃物を取り出し、相手の頬にピタリと押し当てた。
バーの薄暗い照明が、その刃先を不気味に照らし出す。
「ひっ……! わ、わかった! 払う! 払うから!」
刃物を突きつけられた男は悲鳴を上げ、財布から震える手で札束を抜き出してテーブルに放り投げ、逃げるように店から転がり出て行った。
騒ぎを起こした男――江上浩二は、鼻で笑いながらそのナイフを布で無造作に拭き、懐にしまった。
「……ふんっ。しけた野郎だ」
浩二は独り言のように呟きながらカウンターへ戻り、私のすぐ隣の席にドカッと腰を下ろした。強いタバコの匂いと、微かな汗の匂い。そして、圧倒的な暴力の気配。
彼は氷を鳴らして安物のバーボンをあおると、ふと横目で私を見た。
私の着ているハイブランドのワンピースや、シャネルのバッグ。明らかにこの場にそぐわない高級な装いを見ても、彼は微塵も怯まなかった。むしろ、面白そうな獲物を見つけた野犬のように、唇の端を吊り上げた。
「お高くとまったネエちゃんが、こんな掃き溜めで一人酒かぁ? 金持ちの彼にでも愛想尽かされたかよ」
品のない言葉遣い。女性に対する敬意など欠片もない、粗暴な態度。
夫の隆史なら、絶対に口にしない言葉。私をガラス細工のように扱うあの男とは、細胞の作りからして対極にある存在。
「……彼は、私を溺愛しているわ。愛されすぎて、息が詰まりそうなのよ」
私は自分でも驚くほど素直に、そして挑発的な視線で男を見つめ返した。
浩二は低く喉を鳴らして笑い、私の顎を乱暴に掴んで自分の方へと強引に向かせた。指の力が強すぎて、少し痛い。
しかし、その痛みが、私の体の奥底に眠っていた黒い渇きに、強烈な火を点けた。
泥水の中で這いずり回っていた過去の記憶。私が本能的に惹かれてしまう、圧倒的なまでの「危険で強烈なオス」の匂い。
「なら、俺が息抜きさせてやるよ。金持ちの彼には、絶対にできないやり方でなぁ」
浩二の顔が近づき、ニコチンとアルコールの混じった息が頬を撫でる。
彼の目は、私の纏うシャネルや完璧なメイクの奥にある、泥水で育った『底辺の女』の匂いを正確に嗅ぎ取っていた。そして私もまた、この粗暴な男の中に、かつて自分を虐げ、同時に生きる活力を与えていたあの淀んだ世界の引力を見出していたのだ。
軽蔑しているはずなのに、彼に雑に扱われることでしか、私の嘘で固めた輪郭は保てない。それはひどく歪んだ、共犯関係のような熱だった。
私は彼の手を振り払うことなく、自らその毒の沼へと、深い陶酔とともに足を踏み入れていった。
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それからの私は、完全に二つの世界を綱渡りする狂気の遊戯に溺れていった。
週末の夜、神奈川の豪邸の豪奢なベッドルーム。
「栄子、愛しているよ。君は本当に美しい……。早く、僕たちの赤ちゃんが来てくれるといいね」
隆史は、最高級のシルクのシーツの上で、私を神聖な祭壇に捧げる供物のように、ひたすらに優しく、丁寧に愛撫する。少しでも私が顔をしかめれば、慌てて「痛かったかい? ごめんね」と謝り、体重をかけすぎないように不自然な体勢で私を抱く。
私は暗闇の中で「あなた……」と甘い声を上げながら、完璧に悦んでいる妻の演技をこなす。彼との行為は、ただの単調な作業でしかない。
そして数日後。私は「エステの予約があるから」と夫を騙し、都内の外れにある、浩二の薄汚れたアパートへと向かうのだ。
「痛っ……! ちょっと、浩二、髪引っ張らないでよ!」
「うるせえな。こういうのが好きなんだろぉ、お前は」
スプリングの軋む安物のベッドの上で、浩二は私の高価な服を乱暴に剥ぎ取り、一切の容赦なく私を蹂躙する。煙草の匂い。汗の匂い。私の悲鳴などお構いなしの、野蛮で暴力的な腕力。
「……っ、あ……!」
隆史の優しさでは決して満たされない私の奥底の渇きが、浩二の暴力によって完璧に満たされていく。雑に扱われることで得られる、理性を焼き尽くすほどの強烈なスリル。
私は彼の背中に爪を立てながら、己の傲慢さが極限まで肥大化していくのを感じていた。
金も、地位も、圧倒的な安全も、隆史がすべて私に貢いでくれる。
そして、肉体的なスリルと本能の解放は、この裏社会の男が満たしてくれる。
毎日欠かさずサプリメントケースから飲んでいるピルが、私に絶対的な安心感を与えていた。妊娠するわけがない。私は完璧な防壁に守られながら、お人好しの富裕層の夫と、危険な裏社会の男を、自分の思い通りに手玉に取っているのだ。
(私は、すべてを支配している。私の人生は完璧よ)
汗にまみれた浩二の胸板に頬を押し付けながら、私は神にでもなったかのような万能感に酔いしれていた。
翌朝。
浩二の部屋を出て、自宅の豪邸へと帰り着いた私は、完璧な笑顔を貼り付けてリビングの扉を開けた。
「おかえり、栄子。お義母さんは元気だった?」
休日の朝、隆史は淹れたてのコーヒーを用意して私を出迎えた。彼は私に駆け寄り、いつものように愛おしそうにきつく抱きしめてきた。
その瞬間、彼の鼻先が私の首筋のあたりでピタリと止まった。
「……あれ? 栄子、なんだか少し……タバコの匂いがするね?」
ドクン、と心臓が跳ねる。
浩二の部屋で染み付いた、安物のタバコの匂いだ。シャワーは浴びたが、髪や服の繊維に微かに残っていたらしい。
しかし、私は表情の筋肉を一ミリも動かすことなく、わざとらしく困ったような顔を作ってため息をついた。
「ああ、ごめんなさい。帰りの電車に乗ったら、横に座った男の人がすごくタバコ臭くて。服に匂いが移っちゃったみたいで、嫌だったわ」
瞬時に口をついて出た、なめらかな嘘。
隆史の表情が、一瞬にして心配と怒りに入り混じったものに変わった。
「なんだって? それは災難だったね。僕の可愛い栄子に嫌な思いをさせるなんて、許せないな。……気分は悪くないかい? その服はすぐにクリーニングに出しておこう。ほら、温かいお茶でも飲んで」
隆史は私の浮気を疑うどころか、電車での架空の不快な体験に本気で同情し、私を気遣って甲斐甲斐しく動き始めた。
人を疑う機能が完全に欠落している、底なしのお人好し。
彼が私の服をハンガーにかけ直す後ろ姿を見つめながら、私は紅茶のカップを口元に運び、誰にも見えないように冷たく、歪んだ笑みを浮かべた。
(本当に、純粋な男……)
この男は、死ぬまで私を疑わない。私がどれほど嘘を重ねても、彼自身が勝手に美しい解釈をして、私を完璧な妻として崇め続けるのだ。
完全犯罪。
私は彼を一生騙し通し、この富と快楽のすべてを永遠に独り占めできる。
この時の私は、自身の張り巡らせた傲慢な蜘蛛の巣の中で、引っかかった餌を一口では食べずに、ゆっくりところがし続ける遊びを楽しんでいた。




