ピチャ、ピチャ、ピチャ……
豊紈は不安げに視線を動かし、目撃後の状況について説明を始めた。
「黄賢妃は腰を抜かしてしまい、ものも喋れない有様でした。目を見開き、口をわなわなと動かして、荒く息をしながらすがりついてくるので、こちらも動くことができません。私もおそろしさで心臓が止まりそうでしたが、姜道士から飛頭蛮除けのお守りをいただいていたので、なんとか気を強く保つことができました。しばらくのあいだ怯える黄賢妃の背中を撫でていますと、どこかから奇妙な音が聞こえてきました。ピチャ、ピチャ、ピチャ……水がしたたるようなその音は、牌坊の向こう側――階段下から聞こえてくるようでした」
それはなんの音だろう? 雪華は豊紈の顔をじっと見つめた。
豊紈が苦しげに顔を歪め、言葉を吐き出す。
「黄賢妃が浅い呼吸を繰り返しながら、涙目で頼んできました――『熊犬が無事か、あなた見に行ってくれない?』――あるじのお願いであるのに、私はおそろしくて『はい』と答えることができませんでした。黄賢妃はその後も何度か『見に行って』と頼み、やがて気を失ってしまいました」
極限の状況でも犬の安否を気遣う黄賢妃は、優しい人なのかもしれない。けれど付き人の豊紈に対しては、酷なことを頼んでいる。
「それで豊紈さんは見に行ったのですか?」
豊紈は背を丸め、小さく頷いてみせた。
「はい……どうしてあんな勇気が出たのか、自分でもよく分かりません。ぐったりと力の抜けた黄賢妃の体を地面に横たえ、牌坊のほうにひとりで歩いて行きました。月が丸かったのを覚えています……」
語る豊紈の目には涙が滲んでいる。
「門柱のところに辿り着き、階段の下を覗き込みますと、月明かりに照らされて大部分は目視できたのですが、一部見えない場所がありました。右側からせり出している大樹の枝が影を落とし、闇にとけています。ただ――暗がりで何かが蠢いているようで、その動きに合わせて、ピチャ、ピチャ、ピチャ、と音がしました」
「それはなんの音だったのですか?」
「私が大きな声で『誰かいるの?』と尋ねると、音が止み、何かがさっと動いて木立の中に飛んで行きました。しばらく待っても、その何かが戻って来る気配がないので、勇気を出しておそるおそる階段を下り、音がしていた場所に近づいてみますと……熊犬が腹をずたずたに裂かれて死んでるのを発見しました。階段には大きな血だまりができていて、ひどく生臭かった。飛頭蛮が熊犬の腹を裂き、腸を食べたのでしょう」
しん……と痛いくらいの沈黙が広がる。
皆、陰鬱な顔つきで、しばし言葉も出ない。
やがて桃義が唇を尖らせ、呟きを漏らした。
「犬は死んで黄賢妃も死にそうだけど、私は大丈夫……だって姜道士からもらった数珠を着けているもの」
雪華はこれに少し呆れたのだが、よくよく考えてみると、桃義がいらぬことをあえて口に出すのは、不安の表れなのかもしれない。
「絶命している熊犬を見つけたあと、どうされましたか?」
雪華は桃義を無視して、豊紈に尋ねた。
黄賢妃と豊紈は、魏祥を探すために境内を歩いていたはずだが、それどころではなくなった。
時系列をはっきりさせておく必要がある。
黄賢妃は気を失ってしまったので、豊紈が助けを呼びに行ったのだろうかと思ったら――。
豊紈が答えた。
「ふたたび黄賢妃の元に戻ろうと階段を上がり切ったところで、桃義がこちらに近づいて来るのが見えました」
……ん? ちょっと待って。
雪華は眉根を寄せた。
「――桃義さん、おひとりで?」
「ええ、それが何か?」
桃義が勝気にそう尋ね返すのだが、これは問題がある。




