信仰の段
人の身にとっては遥か以前の話。
竜から力を得て大陸を統一した皇帝ドゥムジが、自らを神と称して表舞台から姿を消した。
既に大陸から争いは消え、海を隔てた他国とも良好な関係を築いていたドゥムジは、イシュト大陸の侵攻という僅かな失敗だけを残して絶対の信心を得たまま伝説の存在となったのだ。
しかしその僅かな失敗が、新しい信仰を生むことになってしまった。
それは、ドゥムジは竜によって力を得たのではなく、生まれながらにして神となるだけの力を携えていたのだ、というものであった。
絶対的な存在であるドゥムジ。一度の過ちも起こすことなく大陸を統一した唯一の存在。
そんなドゥムジがあのような、島と呼ぶにふさわしい小大陸への侵攻を失敗するなど、あってはならない。
そんな、盲信とも狂信とも受け取れるような考えを持つ一人の人物が、新しい信仰を広め始めたのだ。
「なんでも、竜は我々人間の味方などではなく、あの島で生きる邪な存在、邪竜なのだということです」
宿屋の主人が語る。
いや、話をしろと言ったラドリアスの無言の圧に負けて語らざるを得なかった。
ドゥムジとはその竜に戦いを挑んだ勇敢な人物であり、その力は人として生まれながらに手にしていたもので、決して竜から受け取ったものではないというのがその人物の言い分であった。
「何を言っているのか、理解できない顔をしてますね」
宿屋の主人は口元を歪めている。
「貴方がたはこの夜が偽物であり、本当は空は大きな布で覆われているから暗いのだと言われたら、信じますか?」
信じないでしょう、と主人は続ける。
方々で語られるそんな、それまでの常識を覆すような話など、初めは誰も信じなかった。
それでも、その人物が何かに取り憑かれたように同じ話を繰り返していく中で1人、また1人と賛同するものが現れ始めた。
そこから先は早かった。
人が集まる場所には、更に人が集まる。
それまで警戒していた者たちも「あの人がいるから」「親しい者が信じているなら」と、それまで気にもしていなかった与太話を信じ始めたのだ。
信仰者が増えてくると、その人物は人々を伴ってとある場所へと移動した。
「なんでもそこは聖地だと言う話ですが、それがどこなのか私は知りません」
宿屋の主人の話し方、言葉の選び方がずいぶんと投げやりなものに聞こえた。
「そして聖地に集まった者達は、集団生活を始めたそうです」
最初の人物を中心とし、力のある者達はその力を農作業や狩りに使った。
知恵のある者はその知恵で聖地と呼ばれる場所を人の住める場所へと変え、力も知恵もない者は金を差し出した。
そうして集団生活が安定していく中で、いつしか最初の人物は教祖と呼ばれることとなり、人々の信仰はやがて宗教へと変化していった。
「しかし、そんな聖地と呼ばれた場所も今はもうありません」
人が集まり、金が集まる豊かな所。
そんな場所に次に集まってきたのは盗賊や罪を犯した者達であった。
言葉巧みに集団に紛れ込み、普段は大人しくしていることで、賊達は誰も怪しまれることなく生活を続けていった。
「そして賊共の数が十分に集まった時、起きたのは虐殺でした」
教祖を始め、力のある若い男達がまず殺された。
次に金を奪われた年寄り達が殺され、顔の整った少年以外の男児が殺された。
結局、聖地に残ったのは賊達と若い女、そして少しの男児だけ。
その話が広まったのは、誰も知らない虐殺からしばらく経ってから、傷だらけで逃げてきた1人の男児の証言によるものだった。
その後、話はすぐに討伐隊に伝わり、編成された部隊が賊討伐に聖地と呼ばれる場所に向かったのだが、その時にはもう聖地はもぬけの殻で、そこに残されているのは多数の血溜まりだけであった。
そこから先の生活を知る者はなく、語るものもなく、あの時の信者の生き残りがどこでどうしているのかは誰にも分からない。
「私達の祖先は聖地へは行かず、遠方より金を捧げて信仰としておりました」
そうして虐殺を免れた信仰者達が今も、隠れながら人神信仰を口伝として受け継いでいるのだという。
「くだらない話です」
と宿屋の主人は吐き捨てるように言った。
「私の親はね、それは敬虔な信仰者でした」
だが自分は違う、と主人は妻の抱く息子の頭部を見つめながら続ける。
「毎日親からそんな話を聞かされていれば、子供心にもおかしな話だと思うものですよ」
ドゥムジが小大陸の侵攻に失敗したことが、どうして竜を敵とする話に繋がるのか理解ができない。
そもそもとして、ドゥムジが竜から力を得ていようが、生まれながらに力を持っていようが、そんなことなどどうでもいい。
「毎日を生き抜くだけの私達には、全くもってどうでもいいことなのです」
しかし息子は違ったようだ、と主人は肩を落とした。
「恐らく息子は、献上する為の金を工面しようとしていたのでしょう」
近くの街の拳闘場で行われる催し物に以前のような集客力はなく、街道が整備されることで途中村に立ち寄る宿泊者も減ってきた。
そのせいで少しずつ宿屋の収入が減り、献上する金が減っていくことで信仰心を疑うような発言をする仲間もいた。
「それでも私は構わなかった。献上する金が無いのなら無いでいい。家族3人が生きていけるだけの金があるのなら、それでよかった」
なのに、と主人は涙で言葉に詰まった。
「不思議なものです。熱心な親を持つ私は信仰などどうでもいいのに、その私の息子にとってのそれは、罪を犯すほど重要なものだった」
そんな息子から聞いたんです、と主人は笑顔とも泣き顔ともつかない顔で言う。
「拳闘場に新しい英雄が現れたのだと、笑顔で話してくれました」
久しぶりに街全体を沸かせるような催し物が行われるということで、息子もあの夜闘拳場にいたのだと言う。
「とんでもない夜だったということでしたが、その翌日に街を賑わせたお2人の存在に、息子は随分と興奮しておりました」
剣の鬼と称されたギル。
拳の姫と称されたロザーナ。
その2人をケンキと呼ぶ噂は昼前には既に街全体に広まっていたらしい。
「そんな話をね、息子は嬉しそうに聞かせてくれましたよ」
何かになりたかったのかもしれない。何者かである他人に自分を重ねてしまったのかもしれない。
「あの子はただ純真で、純粋で、ただそれだけだったのに…」
宿屋の主人はそう言って頭部を抱きかかえる妻に近寄ると、そっとその体を正面から抱きしめたのであった。




