信仰の段
宿屋の主人は面食らってしまい、開いた口がそのままになっていた。
日も落ち、今日の収入を諦めていたところにやってきた人物は、待ち焦がれていた客ではなく、いきなり剣を抜き放つような人間だったからだ。
「金なら、ありませんが」
突然の事で一瞬混乱していたであろう主人は、それでも平然を装い、動じていないように見せる事ができているのは、長く今の仕事を続けてきた経験によって培われたものなのかもしれなかった。
「ここは一人で経営を?」
ラドリアスが剣の先を抜けたまま尋ねる。
「いえ、妻と息子がいますが」
その言葉を受けたラドリアスが「呼んでくれ」と短く伝えると、主人は視線をラドリアスに向けたまま宿の奥に向かって妻の名を呼んだ。
「息子は?」
呼びかける人物が一人であったことで、ラドリアスは切っ先を僅かに主人の首元に近づけた。
「息子は別の仕事で村を出ています。しばらくは帰ってこないと思いますよ」
何の仕事を、と問うラドリアスの言葉に、主人は首を横に振った。
「私共もね、詳しくは知らないんですよ。このところ宿の客が減ってきてるものでね、あの子なりに助けようとしてくれているみたいで」
そうか、と答えたラドリアスは、ギルに見張っておいてくれと言い残し、不意に宿の外へ出ていった。
「どうしたの?」
直後、ラドリアスと入れ替わるようにして、宿の奥から妻が現れた。
「えっ」
と妻が息を呑んだ。
「これは一体、どういう、ことなんです?」
剣を抜いていた者がいなくなったとは言え、宿屋の中は誰でも何かに感づくほどの異常な雰囲気が漂っていた。
「あのお方は、何者なんですか?」
主人の問いに、ギルは少し戸惑ってしまった。
何者かと聞かれれば討伐隊の中で巡回隊士という立場だと答えて間違いはないのだが、ではなぜ巡回隊士が突然宿の中で剣を抜くことになったのかと聞かれれば、それはもう全く分からないのだ。
ギルが何も答えないのを、主人は答えたくないのだと受け取ったらしく、ぎこちない笑みを浮かべて妻へと向いた。
「心配することはないよ、何も起きやしないからね」
主人は安心させようと、不安そうに立ち尽くしている妻に向かって声を掛ける。
こうして見てもただの夫婦にしか見えない人物に向かって、なぜラドリアスは突然剣を向けるようなことをしたのか。
しばらく一緒に旅をしてきたが、未だにラドリアスの事は分からない部分の方が多い。
巡回隊士という仕事柄、そういうものなのかもしれないという思いもあり、これまで深く知ろうとしてこなかったとはいえ、今回の件はあまりにも不可解すぎた。
「これを見てくれ」
戻ってきたラドリアスが主人の目の前に真っ黒に変色した塊を置いた。
「それは」
反射的に止めようとしたギルをラドリアスは手で制し、主人に布を捲るように促した。
主人もそれが良くないものであることは想像できていたのであろう。
大きさや、そこから放たれる血の匂い、そして張り付いて固くなってしまった布。
それが人間の一部なのであろうと半ば確信を持ちながらも、主人は震える手で勇気を出して布を丁寧に剥がしていった。
「これは」
主人の顔が一気に白くなっていく。
そこからは見えないのだろう。妻は不安そうな顔で突っ立っている。
「こ、これは、あなた、」
そして今度は主人の顔が一気に赤くなっていった。
言葉が続かず、言葉にならない言葉を必死に口から吐き出している。
それを見た妻が何事かと恐る恐る近づいてきて、主人の手元を覗き込んだ。
それが何であったのか、すぐには理解ができなかったようで、しばらく息を呑んだまま固まった妻は少ししてから膝から崩れ落ちてしまった。
「ラドリアスさん!流石にこれは!」
ギルはこれまでラドリアスに怒りというものを覚えたことはなかった。
だが今回ばかりは違った。
「落ち着くんだ」
しかしラドリアスは平然とした態度でギルを諌めた。
「あなた、こんな、こんなことをして」
宿屋の主人が肩を震わせている。
突如、我武者羅な叫び声を上げて、主人がラドリアスに殴りかかってきた。
不器用ながらに思い切り振り抜かれた拳がラドリアスの顔面を捉えた。と思われた瞬間、地面に倒れていたのは主人の方であった。
それはとても素早く、とても正確に撃ち抜かれた一発であった。
ラドリアスは主人の拳を何事もないかのように避けると、直後の一発で主人の顎をきれいに打ち抜いたのであった。
それからしばらくして、本人からすれば一瞬の事であったが、目を覚ました宿屋の主人の目に飛び込んできたのは、息子の頭部を抱きかかえて泣き叫んでいる妻の姿であった。




