二つ名の段
ギルと別れてから拳闘場まで歩き続けてきたおかげで体は十分に暖まっていた。
これまでのような不意の戦いの時と比べれば確実に戦う準備はできている。
ロザーナは両手の指を目の前で組んで、目を瞑ってぐっと上に上げて体を伸ばした。
肩や肘のあたりからパキパキと小気味よい音が聞こえ、戦いの準備は完了した。
ロザーナは拳王に向かって無言で頷く。
それを見た拳王は檻の鍵を手早く外すと後ろに勢いよく下がっていった。
直後、それまで檻を揺らし続けていたゴブリンだったが、鍵の外れた瞬間に飛び出してきた。
ゴブリンは拳王のことを気にも止めず、ロザーナに向かって一直線に走り出す。
迫るゴブリンを見つめたまま、ロザーナは静かに意識を集中させていった。
拳王も、他の魔物達も、意識の中から徐々に消えていく。
今この場に、まるで自分とゴブリンしかいないかのような、そんな錯覚に陥るほど意識が集中した時、ゴブリンの動きが徐々にゆっくりしたものへと変わっていった。
この感覚はこれまでの戦いでも、いつも、起きていた。
野営中に攫われそうになったあの夜に、初めて拳を振るった時もそうだった。
狒々の時もそうだ。
走り来る狒々に正面から飛び込み、その膝に踵を落として砕くことができたのも、ロザーナには狒々の動きが緩慢なものに見えていたからだった。
皆そういうものだ、とロザーナは思っていた。
しかし魔物に占領された村で、ギルがゴブリンの陽動的な動きに引っ掛かっているのを見た時、自分の感覚が当たり前のことではないのだと確信した。
それはロザーナにとって喜ばしいことだった。
他の者にはないこの感覚があれば、ギルと並んで戦うことができる。ギルに守られるだけではなく、守ることもできるのだ、と。
しかし、その自信はすぐに萎んでしまった。
あの夜、ロザーナは何もできず、何も分からないままヴェラに気絶させられてしまった。
悔しかった。
せっかく自分も戦えると思えたのに、その根拠もあったのに、文字通り手も足も出ずにやられてしまった。
ヴェラがその気なら、あの場で死んでいただろう。
ヘルマンを連れて行くためにギルが街に向かい、1人森の中の街道に残されたあの夜、ロザーナは悔しさのあまり寝付くことができなかった。
転がっている死体を見ながら、何もできなかったことに対する後悔と、自分が気を失ったことで全てをギル1人に背負わせてしまったことに対する悔しさで胸の中がいっぱいだった。
(私はもう、負けたくない)
眼前に迫るゴブリンは軽く膝を落として溜めを作っている。
飛びかかってくる、というロザーナの予想は当たり、ゴブリンは両手を広げてロザーナを抱き抱えようとするかのように飛びかかってきた。
事前に予想していたロザーナはゴブリンが地を蹴るよりも先に横に跳んでいた。
空を掻き寄せたゴブリンは両足でしっかりと地面に着地すると、その直後人間には不可能な速さで振り返り再び飛び掛かるために膝を曲げて溜めを作った。
(これで、終わり)
ゴブリンが思い切り跳ぼうとしたその瞬間、その鼻先に向かってロザーナの横蹴りが放たれていた。
それは端から見ればゴブリンが自らロザーナの蹴りに突っ込んだようにも見えただろう。
完全に勢いを殺されたゴブリンはその場にグシャリと崩れ落ちた。
この、相手の体の動きよりも自分の思考の方が早く動く、不思議な感覚。
ロザーナはこの感覚が好きだった。
やりたかったことがようやくできているような、そんな充実した気持ちになってくるのだ。
これまでと同様に、今回のように敵の動きを先に予測をすることができれば、その場所に向かって全力で四肢を振るうだけでいい。
そうすれば衝撃がロザーナの体を硬化させ、まるで鉄の塊で殴りつけるかのような威力で急所を捉えることができる。
ロザーナにとって、対面してからの戦いに危機感を覚えることがないのはそういった理由からだった。
だがしかし、森の中でヴェラがそうしてきたように、不意に後ろから首を絞められてはどうすることもできない。
集中する暇はなく、徐々に加えられる力では体が硬化することはない。
そして非力なロザーナでは、ヴェラの腕を外すことすら敵わなかった。
これまでの幾度かの戦いで、戦うことへの自信はついているのだが、だからといって絶対に負けない、という訳では無い。
先が視える目を持つヴェラには、今のところ勝てる気はしない。
そんな事が頭をよぎってしまい、ロザーナの充実した気持ちはあっという間に萎んでいってしまった。
と、いつからか鳴っていた拳王の拍手でロザーナは我に返った。
「参考になればと思ったがよ、こりゃあ何の参考にもならねぇや」
ロザーナの実力を見て、拳王は全てを認めるしかなかった。
好奇心も猜疑心も嫉妬心も、ゴブリンの顔面と同時に砕かれてしまっていた。
「俺ぁお嬢ちゃんみたいに早くは動けねぇし、あんなに正確に打ち抜くこともできやしねぇ」
たいしたもんだ、と拳王は地面に転がるゴブリンを哀れそうに見ている。
「まるで、俺とは見えてるもの自体が違うみてぇだな」
それは確かにその通りだ。だがその言葉にロザーナは曖昧に微笑み返すだけにしておいた。
「ところで、こんな状態で、大丈夫なんですか?」
舞台と客席の間に何もない。
今のように拳王ではなく、他の者に襲いかかることがないとも限らない。
一歩間違えればこの場は大混乱に陥り、客の中から死傷者が出てくることもあるだろう。
「ああ、これなぁ」
と拳王はまた頭を撫でながら苦笑している。
「最初は舞台ごと檻で囲っちまおうかと思ったんだけどよ」
しかし練習で魔物と戦ってみると意外となんとかなってしまった。
なら、と今後も必要になるかどうか分からないものに金を掛けるよりも、舞台と客席の間に武器を持った討伐隊員を配置する方法が選ばれたのだという。
(だから、か)
とロザーナは先ほどの討伐隊での話に合点がいった。
万が一を起こさせない為にはかなりの数の討伐隊員が必要になる。
魔女騒ぎで出払っているところにこんな催し物が行われれば、確かに個人の自宅の警備に人を回す余裕などないだろう。
「まぁ、たぶん?なんとかなるだろうよ」
差しでの戦いだしな、と言うと拳王は倒れているゴブリンの死体に目をやった。
「おっと、今回は随分と早いな」
拳王と話している間に、ロザーナが殺したゴブリンの体は黒い粘液へ変化し始めていた。
「嫌だねぇ、まったく」
こうなると掃除が面倒で仕方ねぇ、とボヤく拳王にロザーナは微笑んで頷いた。
だがロザーナが魔物の死体へ目をやると、その表情は突然曇ってしまった。
魔物が粘液へ変化するということは、同じ黒い血が流れているこの体も死ねば同じように粘液へと変化してしまうのだろうか。
不意にそんなことを考えてしまったからだ。
この皮膚も、肉も、骨も、髪も、そしてこの、思いも。
分からない。
そもそも死ぬことで粘液へ変化しているのか、それとも粘液へと戻っているのか。
自分を作るものへとただ、戻っているだけなのだろうか。
(だとしたら、私は、ギルの前では死にたくないな)
誰だったのか分からない。何だったのかも分からない。そんな死に方は、嫌だ。
ギルの前ではもちろんのことだが、たとえ1人で死ぬにしても。
「こんな最期は、嫌だな」
ロザーナがぽつりと呟いた。
直後、妙な浮遊感に襲われた。
足が地面についていないような、地面がうねうねと波打っているような、そんな感覚に襲われ、ロザーナは眼の前が眩しいほどに真っ暗になっていったのだった。




