二つ名の段
ほら、しっかりしな。まだ死ぬんじゃないよ
ゆらゆらと、体が浮いているような感覚。目を開けてはみたものの、暗くて何も見えない。
抱きかかえられているのだろうか、背中が少し温かいような気がする。
そういえば、ゴブリンを倒した後、急に眼の前が真っ暗になって、それから、どうなったのだろう。
倒れた、のだろうか。
だとしたら今自分を抱きかかえているこの手は拳王のものだろうか。
ちゃんと、やれたじゃないか
いや、違う。
聞こえてくるのは女性の声だ。
まぁちょっと、詰めが甘かったけどね
初めて聞く声。
だがしかし、どこかで聞いたことがあるような気がする。
「はい、わたし、一人でもやれましたよ」
何のことを言われているのか分からないのに、口から自然と言葉が出てくる。
ああ、あんたにしちゃあ上出来だ
声は上から降ってきている。
「わたし、倒れてしまったんですか?」
そうだ、思い出してきた。
間違いない。
自分は拳王の願いを受けゴブリンと戦った後、粘液になったゴブリンの死骸を見て、その場に倒れてしまったのだ。
「でも、全然平気ですよ?あの盗賊はちゃんと倒しましたもの」
盗賊?とロザーナは自分の言葉に首を捻った。
倒したのはゴブリンだ。
てっきり目が覚めたのだと思っていたが、自分は今、夢でも見ているのだろうか。
夢を見ていると思いながら見る夢など、果たしてあるのだろうか。
ああ、そうだね。あんたは頑張った。だから大丈夫だ
聞こえてくる女性の声は不規則に乱れている。ここまで長い間自分を抱きかかえて歩いてきたからなのだろう。
だが、ロザーナはそんな自分の思いにまた疑問が湧いた。
息が乱れるほど長く歩き続け、自分はいったいどこに連れて行かれようとしているのか、と。
「どこに、向かってるんですか?」
勝手にどこかに連れて行かれては困る。ギルやラドリアスと逸れるわけにはいかないのだ。
あんたの傷を治すのさ
しかし返ってきた答えは予想だにしないものだった。
傷とはいったいどれのことだろう。
ゴブリンを倒した際には触れられることすらなかった。
先日の鍛冶屋での切り傷などはとっくに治っている。
「わたし、どこも痛くありませんよ」
痛くはない、というよりも、今気づいたのだが体の感覚がない。
目の前が真っ暗なせいで、どれだけ視界を動かしても自分の体を確認することはできず、動かそうにもまるでそこには何も無いかのようだ。
ただ背中に感じる温かさ以外何も、感じない。
それにこれが夢の中なのだとしたら、尚更傷など負いようもないだろう。
そんなことを思いながらロザーナは笑いながら言う。
「やだな、ヴェラさん。私は何ともないですよ」
一瞬、ロザーナは自分で言った言葉が信じられず、見えていない目を大きく見開いた。
今自分はヴェラと言ったのか、と何度も瞬きをするのだが、相手の姿を確認することはできない。
ああそうさ、あんたは何ともない。何ともないんだ
ヴェラ、と呼ばれた女性は泣きそうな声で、ロザーナを励ますように言う。
だからさ、あんたがやりたいって言ってたことは、これからだってちゃんとできるのさ
「また、視えたんですか?」
意思とは関係なく、口が勝手に動いた。
視えなくてもね、分かることはたくさんあるんだよ
例えばね、とヴェラ続ける。
素敵な男の子と旅をしたいっていうあんたの夢も、きっと、ちゃんと叶う
ロザーナは一気に頬が熱を帯びた気がした。
「そんな昔にした話、わたしはもうとっくに諦めてますよ」
諦めなくたっていいさ
とヴェラが無理やりに笑う。
大丈夫、大丈夫だから、あんたは大丈夫だから。ほら、気を失うんじゃないよ!
珍しく焦っているな、とロザーナは思った。
珍しく、と感じるほど自分はヴェラと親しかったのだろうか。
徐々に、ヴェラの声が遠のいていく。
ちょっと!まだだよ!しっかりしな!くそっ!間に合うんじゃないのかい!!
悪態をつくヴェラの声が、頭の上から次々に降ってくる。
「もういいんです。わたしはもう、十分に生きたから」
心残りがあるとすれば、あの人の行方が分からないままなことと、そしてそれ以来一度も恋をしてこなかったこと。
だが後悔することは何もない。本来なら起こり得ないことが起きたおかげで、長く、楽しく生きてこられたのだ。
「あ、でも心残りといえば」
もう一つあった。
「ヴェラさんったらすぐに毛布を跳ね除けるから、風邪を引かないか心配です」
ヴェラにはいろいろと世話になった。
世話になった分はちゃんと返せただろうか。
幸せになってほしい。
この不器用で優しい人に、幸せになってほしい。
そしてその幸せを、近くで一緒に感じたかった。
「ああ、駄目です、わたし、まだまだ後悔があるみたい」
両方の目からとめどなく涙が溢れてくる。
大丈夫、大丈夫だから
とヴェラは励まし続けてくれる。
あんたのしたいこと、したかったこと、できたこと、全部まとめて直接言いにきな
大丈夫、大丈夫だから
不思議なことに、いつの間にか夢だと思っていたこの状況は実在したものだという確信が生まれていた。
経験していないはずのこの感情は、正真正銘自分自身の感情なのだと受け入れられた。
もう死んでもいいという充実感と、まだ死にたくないという喪失感がせめぎ合い、ロザーナは声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けているうちに、いつしかヴェラの声は聞こえなくなっていた。
暗闇の中、1人立ちすくむ感覚に震えていると、遠くにか細い光が現れた。
ロザーナはそれを必死で追いかけた。
走っているつもりなのに走れていないもどかしさに、ロザーナはついヴェラのような悪態をつきそうになりながら、必死で光を追い続けた。
そしてようやく光に辿り着き、目を開けた先に飛び込んできたのは、眩い陽の光と表現のしようのない表情をした拳王の顔だった。




