ケダモノ 最終話
マシューはギル達を送り出した直後からずっと酒を飲んでいた。
酒は本来貴重なものなのだが、今は現実から目を背けるためにも飲まずにはいられなかった。
どう考えても、この先これまで通りにはいきそうにない。何かが変わっていってしまう。それも自分にとっては良くない方向へと。そんな気がしてならないのだ。
そんな不明確な不安がマシューの飲酒に拍車をかけているのだった。
村から人を集めろ、とギルという若い男は言った。狒々と戦うための準備が必要なのだと。
どのみち、遅かれ早かれ次の協力者たちを探す必要はあった。
あの若い男の言うことを聞くのは癪だったが、バリー達が死んだ今、マシューにその提案を断ることなどできなかった。
だが今回集めた村人達に事情を説明したとき、そこには明確な不安と不満があった。失敗した、とマシューは思った。
集まった連中はこれまでの猿への印象との齟齬から怯え、また陰でマシュー達がやってきたことに対して憤り、とてもではないがこの先協力してくれそうな雰囲気ではなかった。
山へ向かったあの2人組が狒々を倒そうと倒せまいと、どちらにしても狒々が凶悪であったという話と、その狒々から「村を守るために」他の村から人を攫っていたと言う話は村の内外を問わずすぐに広がるだろう。
秘密というのは大きければ大きいほど、守れなかった瞬間から炎のような勢いで燃え広がるものなのだ。
「しょせん自分のことしか考えられない連中だ」
とマシューは一人悪態をつく。
マシューの酒を呷る頻度は増える一方で、目の前に1枚透明な幕でもあるかのように景色が揺れている。
マシューは鈍くなった頭で考えている。
バリー達は違った、と。
彼らは実害にあっていたこともあり、狒々から「村を守るために」汚れ仕事にも手を染めてくれた。
だが今日集めた連中は違った。あいつらは「村を守るために」手を汚すことができない、情けない連中なのだ。
現にすでに山から降りてきているはずの時間なのに、誰一人として自分の元へ戻ってこない。
おそらく這々の体で山から降りてきた連中は報告に来ることもせず、今頃自分の家へと戻り、今日の出来事を言い触らしているはずだ。
とはいえ今日集めた連中は小さな子供のいる家、年寄りのいる家や病人がいる家の者達。そう簡単に動ける連中ではない。そういう連中を選んで声を掛けた。
だがそれでも、とマシューはこめかみに手を当てる。
(噂はすぐに広がり、村を出ていく者達もあらわれるだろう)
家で話したことはすぐに近隣に広まる。そして動けるものはじきに動き出すはずだ。
狒々から逃れるため、狒々へ贄を差し出したこの村から逃れるため。
「お前たちのためにせっかく」と「恩知らずな連中だ」、とマシューは次々に酒を呷っていった。
その時、玄関から誰かが入ってくる音がした。そして家の中に充満する獣臭さと血と、泥の匂い。
マシューが顔をしかめながら部屋の入口を見つめていると、扉が開くと同時に何かが投げ込まれた。
どちゃり、と部屋の真ん中に大きな塊が転がる。
それが狒々の頭部だと判断するのに時間がかかってしまったのはマシューが酒に酔っていたからだけでなく、狒々の頭が血と泥にまみれていたからだった。
「倒しましたよ」
疲れからか、機嫌が悪いからなのか、昼間のギルとは随分雰囲気が違って見えた。
「よくやった」
そう言ってマシューはもう一杯酒を呷り、続けて「だが報酬はないぞ」と言い放った。
今回の件は正式な依頼ではなくお前たちが勝手にやったことだ、と。俺が依頼していたのはお前達ではなく討伐隊なのだ、と続ける。
だから支払う報酬など存在しない、というのがマシューの言い分なのだ。
「ええ、かまいませんよ」
しかしギルはそんなマシューの言葉に反論するつもりもないようだった。
「金には困っていませんし、実際狒々の件は俺がやりたくてやったことです」
自分を俺と呼んでいることに、ロザーナは少し不安になり、そっとギルの外套の端を握った。
それに気づいたギルはロザーナへ振り返り、心配ないよとでも言うように微笑んでみせた。
「報酬はいりません。ただしマシューさん、あなたには街の討伐隊へ一緒に行ってもらいます」
マシューは意外そうな顔をし、続けて顔をしかめた。
そして酔った頭でどうにか絞り出した答えは「どうしてだ?」だった。
「今、討伐隊には狒々の依頼が出てるんですよね?」
ギルは一度咳払いしたあと努めて冷静に続ける。
「その依頼の取り下げをする必要があるでしょうし、その際に人を攫い、狒々に差し出していたという罪を告白してください」
今この場で個人的にマシューを裁くことはできない。例え裁いたところで、何も解決はしない。
討伐隊がどういう結論を出すかは分からないが、少なくともこの片田舎で行われていた恐ろしい出来事を、この場限りで終わらせるつもりはなかった。
「俺がそれを承諾するとでも?」
マシューは酔いから崩れていた体勢を立て直しながら立ち上がり、ギルへと詰め寄った。
「私と、ロザーナ。2人を相手にどうにかすることができますか?」
ギルの気持ちは当初よりも大分落ち着いている。
無言で目線を狒々の頭へ送り、マシューに勝ち目がないことを伝える。
「脅されたところで、俺はな」
そこで黙ってしまったマシューの頭の中ではきっと様々な状況が想像されているのだろう。
その表情はわずかにではあるがいくつもの感情を顕にしている。
だがそうしてしばらくしていたマシューだが、観念したのかついに頷いた。
「よかろう。だが罪の告白などではない。俺は村を守るためにこの手を汚したのだ。何も恥じることはない。かまわんよ、討伐隊に出向いてきちんと話をしようではないか」
マシューは苦虫を噛み潰したような顔で、それでも自分では理路整然としているかのように言う。
明らかに酔っているマシューと話をしても埒が明かないと、ギルとロザーナは話を切り上げ、翌日もう一度話をすることにして部屋へと戻ったのだった。
その夜中。
「ギル、起きて」
マシューの万が一の暴挙を警戒し、ギルとロザーナは交代で見張りをすることにしていた。
そしてロザーナが見張りとして起きていた時、外から音が聞こえた。
「たぶんマシューさんだと思う」
ロザーナに起こされ、ギルはまだはっきりとしていない頭で上体を起こした。
「結局、こうなるのか」
この事態も十分に予想できることだった。
手のひらで顔を拭いながら、ギルはロザーナと一緒にマシューの家を出る。
マシューが何をしようとしているかは明白だった。
馬に乗り、今まさにここから逃げ出そうとしているのだ。
「当てられる?」
狒々討伐から帰ってきた際に予め玄関に置いてあった弓を見つめ、まだ覚醒しきれていない頭でロザーナへと問いかけた。
「うん、任せて」
そう言ってロザーナは弓に矢を番え、狙いを定め、矢を放つ。
高い音をたて一直線に飛ぶその矢はマシューの左肩を撃ち、マシューは情けない声を出しながら馬から落ちた。
「マシューさん」
まだ速度が出ていなかったことでマシューは大した衝撃を受けていない。矢を受けた肩以外は大した怪我もしていないはずだ。
そのマシューは何かを叫んでいる。
あれは村の為だった、と。
俺だって辛かったのだ、と。
俺は悪くない、と。
全て愚かな周りの奴らが悪いのだ、と。
「俺はあなたを絶対に逃さない」
何が何でもあなたを討伐隊へ連れて行く、と言いながら手を差し出すギルの顔を、マシューは酷く醜い顔で睨みつけている。
怒りから顔を真っ赤にし、痛みから顔を酷く歪ませながら泣き叫ぶその様は、あの狒々よりもずっと醜かった。
「俺は何も悪いことはしていない。俺はこの村のことを思って」
そう叫び続けるマシューの顔はもう人間のものには思えなかった。
あの狒々と同じ、いや、それ以上にケダモノの顔をしていた。




