第12話
ボトリ、と重たい音でもするかのように何かが落ちた。
実際にそんな音がしていたのかもしれないが、それは耳をつんざくような狒々の叫び声によって掻き消されていた。
狒々は迫りくる人間からの攻撃に対し、反射的に腕を上げて急所を守ろうとした。
その丸太のように太い腕にギルの斧槍は食い込み、そして両断したのだ。
狒々はもはや戦う意志など持たず、右往左往した後ギルのいる反対の方向へと駆け出した。
追いつけない。
逃げる狒々を必死に追うが、ギルはどんどん引き離されていく。
しかし少し駆けたところで狒々は何かに気づき、はたと足を止めた。
だが、その理由が何にせよ、この時狒々は足を止めるべきではなかった。
これまでの狒々であれば危険を感じれば即座にそこから離れていただろう。今回もそうするべきだったのだ。
狒々の前方には黒い小さな影。
それが普段なら恐れるには値しない小さな「人間」という生き物だと判断できたはずだ。
だが狒々はこれまでに経験したことのない痛みと恐れに興奮し、混乱していた。
松明の明かりを見続けていた目は未だ暗闇に慣れきっておらず、影の正体を掴みきれない。
混乱から、恐れから、足を止めてしまった。
その瞬間、前方の小さな黒い影は勢いよく走り出し、狒々に向かって飛び込むように前方宙返りをしたかと思うと、その勢いのまま踵を狒々の膝へと打ち付けたのだった。
嫌な音とともに、狒々の膝の皿が割れる。
狒々はもう走ることができず、近づく脅威を払い除ける腕も片方を失ってしまっている。
膝をつき、荒い呼吸のまま正面へと視線を移したとき、そこには2つの影が立っていた。
2つの影、ギルとロザーナは自分達と同じ高さになった狒々の目を真っ直ぐに見つめている。
そして無言のままギルは斧槍を振り上げ、狒々に向かって振り下ろした。
直後、狒々はすべての苦痛から開放され、地面に大の字で倒れたのだった。
ギルが狒々と戦う前のこと。その日の昼の話。
ギルは旅の間放置していた髭を剃り落とし、小川で入念に体を洗っていた。
村長から借りた石鹸はこの村では貴重なものらしく、随分と嫌な顔をされたものだった。
しかし自分の匂いは完全に消しておきたかった。
その上でロザーナの毛布を被り、狒々を騙し討ちにする算段でいたのだ。
それと同時に、ロザーナにも冷たい小川で体を洗ってもらった。
そのロザーナはギル達一行よりも少し遅れて山へ入り、ギル達の後ろをついていった。
山に入るなり頭から泥を被り入念に匂いを消した。
そして広場の外れで腹ばいになり、その時を待った。
松明の明かりが徐々に減り、最後の一つになったとき、ロザーナは狒々の居場所と姿を強く記憶に残しながら目をつぶった。
そうしてギルからの合図を待った。
幸いにもその後狒々が大きく動くということはなく、松明の明かりがすべて消え、ギルの自分を呼ぶ声で目を開けたとき、暗闇に慣れたロザーナの目は、はっきりと狒々の居場所を捉えることができた。
起き上がり、弓に矢を番え、弦を引く。
黒い大きな塊に向かって矢を放つと、黒い塊は鈍い声を上げた。
続けざまに2度、3度と矢を放った。
狒々が発する声を頼りに、ギルは走りだし、その攻撃は確かに狒々の影を捉えたのだった。
ギルの作戦は概ね成功と言えた。
自らを囮とし、狒々をその場に留まらせること。
自らは松明の明かりを直視しないことで、狒々よりも一瞬でも早く暗闇に目が慣れるように立ち回ったこと。
前もって指示していたとおりに動いてくれたロザーナのおかげで無事に狒々を討ち取れたこと。
十分すぎる結果だと、ギルは思う。
だが同時に予想外の狒々の動きによりロザーナに直接戦わせてしまったこと。これはとても不本意なことであった。
「できれば松明が消える前に倒したかった」
狒々の死体を前にぼそりと呟くギルにロザーナが話しかける。
「あのね、前にギルに話しかけたとき、途中で遮られたの、覚えてる?」
ギルは少し記憶を辿り、そういえばと村長の家から飛び出したあとのことを思い出した。
あの時確かにロザーナは何かを言おうとしていた。それを狒々の声によって遮られたことがあった。
覚えてるよ、と答えたギルにロザーナは続ける。
「あの時ね、ギルに聞きたかったの」
無言でギルはロザーナの次の言葉を待った。
「あのね、私、あの夜、人を殺してたんだよね?」
一瞬何の話かと思ったが、それがバリー達の現れた夜の話だということに思い当たる。
「ギル、マシューさんの家で4人とも殺したって言ってたじゃない?」
言ったような気がする、と思うと同時に自分の発言の迂闊さに気がついた。
ギルはバリーともう1人を殺した。
しかしロザーナを襲った男2人は気絶しているだけだという体にしていたのだ。
倒れた男2人を縄で縛り、男達はまだ生きているとロザーナには答えていた。
だからあの時、マシューの家でギルが殺した人数は4人ではなく2人と答え、あとの2人のその後は知らないと答えるべきだったのだ。
「あの時私ね、もしかしたら私はあの人達を殺してたんじゃないかって、ギルに聞こうとしてたの」
ギルは必死に言い訳を考える。ロザーナは殺していないと伝えたい。人ではない人間である上に、殴打で人を殺せるなどという現実などロザーナに知ってほしくなはい。
ギルは答えに詰まり、考える。
そのギルが口を開くより先に、ロザーナが口を開いた。
「でもね、聞かなくても分かっちゃった」
そう言ってロザーナは屈み、倒れた狒々の膝へと手を伸ばす。
「あの夜も、思いっきりだったし、生きてるはずがないんだよ」
狒々の膝はそこに骨などないかのように柔らかくなっている。
「ごめんね」
とロザーナは謝る。
謝ることなんてない、とギルは返す。
「ギルはきっと、私に気を使って死んでないってことにしたんだよね」
そう言われ、ギルは言葉が出てこない。
「私は、平気。自分がどういう存在であろうと、ちゃんと向き合うよ」
さらにロザーナが続ける。
「向き合った上で、戦うことができる力を使わない、なんてことはしない」
前にも行ったけど、とロザーナ。
「できることをせずにギルに何かあったら、それこそ私は私を許せないもの」
たから私はこの先も、あなたと一緒に戦いたい、とロザーナは言うのだ。
ギルは胸が熱くなった。この感情をどう呼べばいいのか分からない。しかしこの熱さは、これまで経験したことのない、心地のいい、熱さだった。
「ありがとう」
こみ上げるものを我慢し、ギルはそれしか言えなかった。
「もう、行こう」
そう言ってギルは狒々の首筋へ斧槍を添え、思い切り引き抜き、重たい頭をぶら下げながら、重たい足取りで山を降りていったのだった。




