第9話
暗闇から、ぬるりと狒々が現れた。
全身の黒い毛は暗闇に同化し、毛のない顔の部分だけが浮いているように見える。
狒々は酷く上唇を捲らせながら嗤っている。
嗤いながら、ゆっくりと下から何かを投げつけてきた。
ギルが慌てて眼前で盾を構えると、盾に当たった何かがバラバラと地面へ落ちた。
それは白く細い、骨だった。腕の骨、肋の骨、頭の骨。
狒々はただ嗤う。嘲笑う。呵う。
直後、いつの間にか背後にいたロザーナが、ギルの脇をすり抜けて前へと駆け出した。
勢いよく走り、そのまま狒々の腹へと拳を打ちつける。
鈍い音を立てたその威力は凄まじいものに思えたが、狒々はそれを意に介すことなくロザーナの腕を掴んだ。
持ち上げ、嗤いながら、もう一本の手でロザーナの足を握る。
片手片足を掴まれたロザーナは抵抗らしい抵抗ができないまま地面に叩きつけられた。
何度も何度も、ロザーナは声を出すことなく地面に叩きつけられ、古びた案山子のようにぼろぼろになりながら無惨に死んだ。
息ができない。
息をしなければ、とギルは喉を掻きむしる。
膝をつき、視線の先の地面に吸い込まれるような感覚のあと、ギルは眼を開いた。
見慣れない天井を見据えたまま、夢だったのかと一瞬安堵した。
だがふと、夢ではなく自分だけがここに戻ってきてしまったのではないかという恐怖に駆られた。
「ロザーナ!」
慌てて部屋から出たギルは、ロザーナがいるはずの部屋に向かう。
しかしそこには誰もいない。
「ロザーナ!」
もう一度名前を呼び返事を待つがマシューの家の中は静まり返っている。
不安は徐々に大きくなり、ギルは慌てて外へと駆け出した。
「あ、おはよう」
家の外にはロザーナと、先日村まで案内してくれた青年、フランクが立っていた。
未だ混乱の中にいるギルは頭を掻きながら顔をしかめるので精一杯だった。
「どうしたの?そんなに慌てて」
外まで声が聞こえてたよ、と言うロザーナの手元にはマシューの部屋で見た弓が握られている。
「今ね、弓の使い方を教えてもらってたの」
そんなロザーナの隣でフランクが頷いている。
「教えると言っても、最初から僕より上手でしたけどね」
とフランクは苦笑した。
何事もなかった。あれはただの夢だったのだ。
ギルはようやく混乱が収まり、改めて朝の挨拶をしたあと、なぜそんなことをと聞いた。
ロザーナは昨日マシューの部屋で弓を見てから、自分にも使えそうな気がしていたのだと言う。
もし本当に使えれば、狒々との戦いにも役に立つのではないか、と思ったのだと。
先程の夢のこともあり、ギルはロザーナが狒々と戦うことには多少の抵抗感を覚えていた。
だが今ここで言っても仕方のないことだ、とはっきりしてきた頭でしばらく2人の練習風景を眺めているうちに、ギルは今日自分がやろうとしていたことを思い出した。
「マシューさん、あなた方が女性を連れて行った場所を教えてください」
狒々が女性を弄び惨殺する場所。
その場所を事前に確認し、戦う準備をしておかなければならない。
そんなギルの質問に、意外にもマシューは素直に場所を指し示してくれた。
マシューもギルとロザーナに期待をしているわけではないだろう。
だが他に方法がない以上、これ以上強く当たったところで意味がないと思ったのかもしれない。
ギルはマシューの示した入り口から山へと入っていく。
相変わらず吹く風は冷たく、まだ昼前だというのに空を覆う分厚い雲のせいで既に薄暗かった。
今回ロザーナには村に残ってもらった。
狒々があれだけロザーナに興味を持っていたのなら、今は山に入るべきではないと判断したからだ。
入り口から山の奥へはずっと一本道で迷いようがない。
しかしなかなかそれらしい場所は見えてこなかった。
「当然か」
とギルは独りごちる。
ある程度奥まった場所でなければ、女性の悲鳴が村に届いてしまうだろう。
それに万が一女性が狒々から逃げ切るようなことがあってはマシューにとって都合が悪い。
だがその事実は、確実に狒々に殺される場所を用意した、という常軌を逸している考えからきており、それに納得できないギルはマシュー達のそこに至るまでの日々をただ想像することしかできなかった。
そんなことを考えながらしばらく進んでいると、突然切り開かれた場所に出た。
それは自然にできた場所ではなく、明らかに人為的に作られた空間だった。
木々に囲まれた、ある程度の広さのある広場のような場所。木は根元から掘り起こされており、地面は平らに整地されている。
真ん中まで進むとそこには木の台座があり、台座の周辺や広場のそこここが黒く変色している。
それは大量の血が染み込んだ痕なのだろう。
ギルは辺りを見渡した。
山に入ってから視線を感じるような気がしてどうにも落ち着かない。
どこかから狒々に見られているのではないか、そんな考えが頭から離れない。
すでに真後ろに立っているのではないか、そんな想像が何度も頭をよぎった。
だが狒々の話を聞く限り、明るいうちから武器を持った男に襲いかかってくるようなことはしないはずだ。
何度も周辺を見回し、何もいないことを確認したギルは安堵のため息を付きながら、懐から紙と黒鉛でできた筆記用具を取り出した。
その紙に広場を上から見た様子を書き込んでもう一度ぐるりと広場を見回す。
夜に戦うには何よりも明かりが必要だと思った。
切り開かれた場所で月の光は十分に届くだろう。
だが満月とはいえその明かりだけで戦うには心もとない。
昨夜の夢を思い出す。暗闇から現れた黒い獣の姿を。
暗闇の中であの体は相当見えづらいだろう。
逆にギルの身につけている帷子や外套も闇に溶け込みやすくはある。暗い灰色の竜の素材でできた防具は狒々からも目視しにくいはずだ。
だが相手は人間ではなく野生の獣。目はこちらよりもいいと思って間違いない。
その後もギルは広場を歩き回り、いろいろと紙に書き込んでいった。
十分な用意をするほどの時間はない。だがやれることはやったはずだ。
ギルは暗くなる前に早足で山を降り、明日の戦いへと備えることにしたのであった。




