第8話
それは全身が黒い毛で覆われた生き物だった。
魔物でも比較的大型であるオークやオーガよりもまだ大きな身躯をしており、四肢も同様に隣にあった木と変わらないほどの太さであった。
よくあんな生き物を身近に置いて生活できるものだ、とギルはこの村の者たちに感心してしまった。
もしも山や洞窟の中、街道で出会そうものなら有無を言わさず斬りかかるような相手と、この村は長い間共存してきている。
もちろんそれは相応の犠牲を払っているからこそなのだが、あれほど巨大な生き物からすれば人間などひ弱な生き物であろうにも関わらず、未だこの村が襲われていないのは奇跡だとも思えた。
「驚いたね」
声に振り返るとロザーナが困ったような笑顔を浮かべている。
「ああ、聞くのと見るのとでは大違いだ」
狒々は巨大な猿だと聞いていた。しかし今見た生き物は猿と呼べるかどうかも怪しいほどの大きさだった。
ふと、こめかみから頬を伝う汗に気づいた。
そして全身にじっとりと汗をかいていることにも。
狒々と対峙し、対処する方法がない状態で立ち尽くすのは、自覚している以上に精神的に負担が大きかったようだ。
空を見上げて大きく息を吸い込んで、吐く。
これまであんなに大きな生き物と戦ったことはない。
何かできることがあるのでは、とこの村までやってきたが、狒々を目の当たりにして果たして自分が敵う相手なのかどうか、ギルは少し自信がなくなってしまった。
だがしかし、ともう一度強く息を吹き出す。
やるしかないのだと、ギルは自分に言い聞かせた。
何もできないと諦め、今ここから去ってしまっては、また罪のない女性が狒々に差し出されてしまうだろう。
そんなことを見過ごすことなどできない。ここで止めなければならない。
助けを求めるか、とも考えた。
幸い金ならある。討伐隊に改めて依頼をする程度の金ならば、カーマイン商会の仕事で貯まっている。
だがしかし、とそんな時間がないことに思いが至る。
満月はもうすぐなのだ。
これから街まで行く間には満月を迎え、また犠牲が出てしまう。
その後に解決するのでは、遅いのだ。
「一度マシューさんのところに戻ろう」
そう言ってギルは来た道を引き返した。
「気に入られたのだろう」
とマシューは皮肉めいた笑みを浮かべて鼻で笑った。
「ちょうどいいじゃないか、どうにかしてくれるのだろ?」
その女を囮にして狒々を倒せばいい、と言うとマシューは強そうな酒を口に運んだ。
現実から目を背ける為には酒の力が必要だったのかもしれない。
だがしかし、依頼の為の金がないはずなのにその酒はどうやって手に入れたのだろう、そんな考えがギルの頭をよぎった。
「満月は明後日だ」
何か策はあるのか?と強い酒に噎せながらマシューは言った。
「さっきも言ったが、狒々は危険を察知したらすぐ逃げるぞ」
お前達2人で何ができるのだろうな、とマシューは毒づく。
顔が少し赤いところを見るに、ギル達が出ていった直後から酒を飲んでいるようだ。
だが確かに森の中で逃げる狒々に追いつくことは不可能に思う。
「少し考えてみます」
今のギルにはそれしか言えなかった。
ギルとロザーナ、2人が家から出ようとすると、ここに泊まればいい、とマシューは少し意外なことを提案してきた。
宿屋のないこの村では野宿するしかないだろうからと。
ギルとロザーナはマシューの言葉に素直に甘えることにした。
家族は、と聞いたが妻には先立たれ、嫁に出た娘家族とはどうもうまくいっていないらしい。
口ごもり、一人静かに酒を飲み始めたマシューに形式的に礼を言い、ギルとロザーナは開いている部屋に適当に荷物を運び込んだ。
久しぶりに暖かい寝床で横になりながら、ギルは考える。
慎重で、強大で、強力な相手に対し、どうすれば正面から戦うことができるだろうかと。
おそらく戦う機会は一度しかないはずだ。
ここで間違いを起こすと狒々はより慎重になり、場合によってはこの村から姿を消すだろう。
それでは解決にならない。
この先またどこかの村に現れ、同じことが繰り返される。
この一度きりの機会を、狒々を逃がすことなくものにするにはどうすればいいのだろうか。
ふと、先程の光景が頭をよぎる。
狒々はロザーナに強く興味を持っていた。
だが、だからといって村の中にまで入ってくるほど自我を失ってはいなかった。
物事の判断がつかないほどの感情を呼び起こすとしたら、それは喜びなのか、哀しみなのか、楽しみなのか。
「いや、違うな」
とギルは過去の自分を振り返る。
引き下がるべきところで引き下がれなくなる感情、それを一度自らが経験していたことを思い出す。
ならば、どうすればあの狒々を前後不覚になるほどの感情まで引き摺り込むことができるだろうか。
そんなことを考えているうちに、旅の疲れからかギルは次第に眠気に襲われてしまった。
オーガよりも大きな猿、狒々。
魔物は黒い竜であるカティナから生まれ落ち、その造形はカティナの経験や記憶が元になっている。
もしかしたらオーガの原型となったのは狒々のような巨大な猿の記憶だったのかもしれない。
そんなことを思いながら、ギルはいつの間にか泥のように眠ってしまったのであった。




