第10話
その日は村の大部分の者にとっていつもと変わらない1日だった。
何も知らないまま、何も変わらないままの日常を過ごした。
その日何が起こったのか、なぜそんなことが起きたのか、それを知るのはもっとずっと後になってからのことである。
今宵が満月だという日の午後、マシューの家に村の男達が数名集められた。
その者達はなぜ呼ばれたのかもよく分かっていない。
唯一その中のフランクだけはあの大きな猿に関することなのだろうと予想はしていたが、かと言ってなぜ自分が呼ばれたのかまでは全く想像ができなかった。
それからしばらくして、日が暮れる前に2人の男達が山へと入っていった。
その顔は恐怖に引きつっており、少しでも早く役目を終えようという思いが見て取れる。
2人の男は何本もの松明を抱え山へと消えていった。
それからまたしばらくして、マシューの家から数名が出てきた。
そしてその数名の内の1人が、玄関前に用意されていた戸板へと座った。
その戸板に固定された丸棒を残った他の者達で持ち上げる。
フランクを含めたその者達も皆、一様に不安そうな顔をしており、お互いに顔を見合わせながらどうにか平静を保っているような状態だった。
戸板の上に座ったのは毛布を頭から被った人物。
くるまるように毛布を被っている為それが誰なのかは分からないが、その毛布はイアンからもらった、ロザーナが旅の間ずっと使用していた毛布だった。
丸棒を担ぐ4人の男達によって、狒々への生贄は山へと運び込まれていく。
日がすっかり落ちてしまった頃、一行は松明に照らされた例の場所へと到着した。
静かに、とは言い難い勢いで戸板が台座に置かれた直後、ようやく開放されたと言わんばかりの勢いでその場を走り去る足音が聞こえ、暫くした後、残ったのは耳が痛くなるほどの静寂だった。
自分の心臓の音しか聞こえない。
いつもよりもずっとうるさく鳴り続ける心臓の音が、酷く不愉快に思えた。
戦える、という自負はある。
先日も2人を相手に戦い抜くことができたのだ。
自分には、戦える力がある。そう何度も言い聞かせるが相手の力量が分からない。
自分を安心させたいのだが、自分の力がどこまで通用するのかという疑念は残る。
相手は自分よりもずっと大きな生き物なのだ。
自分よりもずっと力強く、俊敏に動く、狡猾な生き物なのだ。
だが狒々を誘き寄せるにはこれしかないと思った。
そしてその狙いは当たり、しばらくするとどこからか喜びをこらえきれないような声が漏れ聞こえてきた。
グッ、グフッ、と内から溢れる感情を必死で抑えているような、そんな気持ちの悪い笑い声が聞こえてきた。
それは台座の周辺を何周か歩き回った後、ぴたりと足を止めた。
そしてそっと指をかけ、毛布を捲り上げてきた。
周辺の松明によって浮かび上がる狒々の顔。
間近で見る狒々の巨大な顔は記憶にあるもの以上に大きく、醜かった。
直後、覗き込む狒々の顔面を目掛けて何かが振り上げられた。
獣の本能によってか、はたまた毛布の中身を直視したからなのか、狒々は上体を大きく後ろに反らして後方に飛び退いた。
少しの沈黙の後、毛布を持ち上げて中から出てきたのはギルだった。
狒々の顔面目掛けて斧槍を振るい上げ、可能ならばその一撃をもって狒々を葬り去りたかった。
だがそれには失敗した。
ギルの不意の一撃は、狒々の顔に斜めに赤い筋を作ることしかできなかった。
だがその筋は徐々に広がり、結果どろりと赤い血を吹き出した。
斧槍の先端が、狒々の顔を深くはないが切り裂いていたのだ。
そんな狒々を見て、ギルは呵った。
声を張り上げて狒々を呵う。
普段そんな笑い方をしないギルにとって、自分でもわざとらしいと思えたが、だがどうやら効果はあったようだ。
狒々は徐々に顔を引きつらせ、目の前の人間が自分を馬鹿にしていることに気づき、怒っている。
怒りによって顔を歪め、真っ赤になった顔の傷はますます開いていくようにも見える。
ギルに向かって牙を剥き、咆哮をあげている。
狒々は今、完全に我を忘れて怒っているのだ。
あの日、幼い頃ロザーナが殺されたあの日、戦えるはずのないギルが、それでも感情にまかせて魔物に斬り掛かかることができたのは、すべて怒りからくるものであった。
狒々も言ってしまえばただの生き物。
ならば感情によって、あの日の自分のようにいつもと違う行動を取るはずだとギルは思った。
そしてその予感は見事に的中した。
狒々は今、自らを傷つけた相手から逃げようとはせず、その相手と戦うことを選んだようだった。




