第1話
「どこかで会った、か?」
しっかりと抱きついてきている女性とは反対に、アッシュと呼ばれた青年の手は宙に浮いている。
体を少し後ろに下げながら女性の顔を見ようとするのだが、思いの外力が強く離れてくれそうになかった。
「確かに俺は、アッシュと名乗って旅をしてきたが、君に会ったことはないと思うんだ」
会ったならば覚えているはずだ、と思わせるほど女性の雰囲気には何か特別なものがあった。
赤い髪をした青年、ギルはヴェラが去ってしばらくしてから街を出た。
そのギルがこれまでアッシュを名乗り旅をしてきたのは、子供の頃のような冒険心だけからきたものではなかった。
ギルが旅に出ることを親に話すと当然の如く却下された。
カーマイン商会の跡取りが何を言っているのかと酷く叱咤された。
散々親に反対をされたギルだが、しかし頑として考えを変えなかった。
長い話し合いの末、最終的には両親が折れることとなったのだが、ただ旅に出すというのは流石に途方も無い話だったため、ギルの両親はギルに家業を手伝いながら旅をすることを条件付けた。
親としてはそうすることでギルの旅の資金の心配をなくし、安否の確認も取れると踏んだのだ。
甘やかされている、とギルは思った。子供扱いされている、と仕方のないこととはいえ反発する気持ちは否めなかった。
だからギルは精一杯の抵抗として自らをアッシュと名のり、ギルの名を隠すことで一族の恩恵から一歩外に出た状態で旅をすることに決めた。
旅に出た先でも実家の援助に甘えているようでは、せっかくの旅がどうしても安っぽいものに思えて仕方がなかったのだ。
とはいえ旅に出たての右も左も分からないギルにとって、カーマイン商会の存在は正直助かった。
自立したい気持ちと家業に甘えてしまう気持ちの間で、ギルは当初やきもきした気持ちになったものだった。
ギルの住んでいた街は大陸の南東寄りにあり、首都に行くよりも海の向こう、イシュト大陸に行くほうが近い場所にあった。
それはヴェラ達が上陸してきた場所に由来するためだが、そういう場所からの出発となった為、ギルは大まかに西に向かって進み始めた。
いくつも街をめぐり、カーマイン商会に顔を出すことで荷運びの依頼を受けて旅の資金とし、情報をもらい次の街へと旅をした。
また旅の途中、街の討伐隊が貼り出している小規模な魔物狩りの依頼もこなした。
毎日が充実していた。目新しいことの連続だった。カティナを探すという目的を果たす手掛かりさえなかったが、憧れていた冒険の旅はとても楽しかった。
ここまで大きな失敗をすることがなかったのはヴェラが鍛えてくれていたおかげだと思った。
その身を五体満足のままでここまでこられたのは、貰った装備品のおかげだと思った。
しかしそれを差し引いても、自分の力で何かを成し遂げることに、ギルは強い喜びを感じていた。
だがそうして旅を続けている間、嫌なこともたくさんあった。魔物の討伐に向かえば殺された人間を見ることになる。魔物の仕業かと思ったものが人の手によるものもあった。
当初、その一つ一つに心を痛めたギルだったが、結果を報告した際には皆あっさりしたものだった。
飲み込みきれない現実、その現実とズレてしまった理想とが、1人で旅をするギルの心を少しずつ蝕んでいった。
殺しても殺しても減っているように思えない魔物に辟易とした。
短絡的な動機で犯罪を犯す人間達を見るのにもうんざりとした。
長く旅を続けるにつれ、最初の頃のような充実感や喜びを覚えることは減ってきていた。
どんなに刺激のある毎日でも、やはり1人ということもあり、次第に慣れ、漫然とした毎日になっていた。
そして今夜、村の襲撃やゴブリンを取り逃がしたことでまたも気が滅入っていたギルは、自分のことを知るはずのない女性から名前を呼ばれ戸惑っている。
ギルに声をかけられた女性は少し体を離すと、まるで寝ぼけているかのように小首を傾げるのであった。




