6ワン
少しずつ成長するソラを見守るチワワ(おじさん)
孤児院の朝は、鐘の音で始まる。
からん、ころん、と、教会の鐘楼から降りてくる音。それを合図に、子どもたちが一斉に起き出して、廊下をどたどたと走り回る。
「ソラ、起きて! 今日は洗濯当番だよ!」
「うう……あと五分……」
「ダメ! コッペも起きて!」
布団をひっぺがされて、俺とソラは、寝台の上で丸くなった。
ルーナは、腰に手を当てて、仁王立ちしている。
「シスターが、朝ごはんの支度をしてるんだから。私たちも働くの」
ここで暮らし始めて、しばらくたった。ルーナは、すっかり「お姉さん」ぶるようになっていた。大して歳も変わらなそうなはずなのに。
ソラは、ぼさぼさの頭で、もそもそと起き上がった。
「……はーい」
その顔は、眠そうで、でも、どこか嬉しそうだった。
朝、誰かに起こしてもらう。
当たり前のことが、この子にとっては、きっと、まだ特別なのだ。
*
孤児院には、ひとり、用務員のシリウスというおじいさんがいた。
背が高くて、腰は少し曲がっているけれど、肩幅だけは、やたらと広い。若いころは兵士だったらしい、と子どもたちが噂していた。
ある日、そのシリウスじいさんが、ソラを庭に呼び出した。
「坊主。お前、これから先、一人で生きていくことになるかもしれんし、身を守る術を、覚えておけ」
そう言って、木でできた短い剣を、ソラに放り投げる。
ソラは、受け取ろうとして、木剣を取り落とした。
「重い……」
「最初はそんなもんだ。毎日、振れ」
その日から、ソラの稽古が始まった。
朝の洗濯当番と、昼の掃除と、夕方の薪割りの合間に。庭の隅で、木剣を振る。
「一、二、三、四。腰が浮いとる。もう一度」
「はいっ」
「握りが甘い。もう一度」
「はいっ」
素人の俺から見てもソラは、へたくそだった。
剣は重いし、足はもつれるし、振るたびにふらついて、尻もちをつく。
それでも、やめなかった。
毎日、毎日、汗だくになって、木剣を振り続けた。
俺は、庭のテーブルセットに登って、その様子を眺めていた。陽当たりも良いし、昼寝も捗る。
いつのまにか、それが日課になっていた。
*
稽古が終わるころには、ソラの手のひらは、まめだらけになっていた。
破れて、血がにじんでいる。
「いてて……」
ソラは、洗い場の水で、手を冷やしていた。
俺は、こっそり近づいて、ソラの膝に顎を乗せた。
「コッペ、どうした?」
その手を、ぺろり、と舐める。
舌先に、ほんの少しだけ、魔力を乗せた。
ぽう、と柔らかな光が灯って、まめがみるみるうちに塞がっていく。
「……あれ?」
ソラは、自分の手のひらを見つめた。
「痛くなくなった」
きょとんとした顔で、俺を見る。
「コッペが、舐めてくれたから?」
きゃん、と、素知らぬ顔で返した。
ソラは、それ以上何も聞かなかった。ただ、俺の頭を、ぐしゃぐしゃに撫でてくれた。
……前よりも、魔力の加減が、うまくなってきている。
少しずつだけど、確実に。
この力は、ソラを守るために使う。
そう決めていた。
*
その日は、少し様子が違った。
いつものように、庭で稽古が始まった。シリウスじいさんが、木剣を構えて、ソラと向かい合う。
「よし。今日は、打ち込みの稽古だ。遠慮なくかかってこい」
「はいっ」
ソラが、木剣を振りかぶった。
俺は、テーブルの上から、それを見ていた。
がんばれ、ソラ。
心の中で、そっと応援した。
その気持ちが、少し、漏れてしまったのだ。
ソラの木剣に、ほんの少しだけ、魔力が乗った。
ぶん、と空気が鳴って。
ばきいっ!
おじいさんの木剣が、真っ二つに折れた。
「…………」
「…………」
庭が、しんと静まり返った。
シリウスじいさんは、折れた木剣の切り口を、じっと見つめていた。
「……坊主」
「は、はい……」
「お前、今、何をした」
「え、えっと……普通に、振っただけ、です」
ソラは、真っ青な顔で首を振っている。
シリウスじいさんは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、丸くなっていた。
「……こりゃあ、驚いた。筋がいい。いや、それ以上か」
「え、ええっ……?」
「これは、鍛えれば、化けるかもしれん」
ソラは、目をぱちぱちと瞬かせた。
テーブルの上で、俺は、顔を覆いたい気分だった。
やりすぎだ。加減を間違えた。
でも、少しだけ、嬉しかった。
ソラが、褒められた。
その事実だけで、胸が温かくなった。
*
さて。
ここで、ひとつ、白状しなければならないことがある。
孤児院での生活は、素晴らしい。
あったかい食事。あったかい寝床。あったかい人たち。
そして、何よりも。
シスターがいる。
毎朝、食堂に降りていくと、彼女は、鍋をかき混ぜながら、振り向いてくれる。
「おはよう、コッペくん」
優しい声。
白い頭巾の下の、穏やかな笑顔。
俺は、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、彼女の足元に駆け寄った。
「あらあら、朝から元気ね」
シスターは、しゃがんで、俺を抱き上げてくれた。
ふわり、と、石鹸と乾いた花の匂いがした。
腕の中は、やわらかくて、あたたかくて。他にも柔らかいものが頭や背中にむにんっと当たる。
極楽だ。
ここは、極楽だ。
俺は、彼女の腕の中で、ぐでん、と力を抜いた。
顔を、ぐりぐりと胸に押しつける。
いい匂いだ。
いい匂いだ。
世界最高峰の魔力も、最強のステータスも、この瞬間の幸福には、勝てない。
……いや、待て。落ち着け、俺。
これは、あくまで犬としての、正当な安心感を求める行動である。
決して、下心などでは……。
「コッペくん、くすぐったいわよ」
シスターが、くすくすと笑った。
その笑顔が、また、最高だった。
*
俺の日課は、次のようになった。
朝。食堂で、シスターに抱っこしてもらう。
昼。シスターが洗濯物を干しているとき、足元にまとわりつく。ときどき、抱っこされる。
夕方。シスターがお祈りをしているとき、膝の上に乗る。抱っこされたまま、祈りを聞く。
夜。就寝前に、シスターが子どもたちの部屋を見回りに来る。そこで、抱っこしてもらう。
一日、四回。
我ながら、なかなかの充実ぶりだった。
「コッペ、お前さあ」
ある日、ソラが、じっとりした目で俺を見てきた。
「シスターにだけ、やたら甘えるよな」
……ぎくり。
「おれや、ルーナが撫でても、あんな顔しないのに」
顔? どんな顔?
「なんか、とろけてる」
バレている。
俺は、ぴたりと動きを止めて、目をそらした。
「やっぱり、女の人だと、すぐ寄っていくよな……」
「わたしも、そう思う」
横から、ルーナが割り込んできた。
腕を組んで、頬をぷくっと膨らませている。
「わたしが抱っこしても、そんなに嬉しそうな顔しないもん」
「そりゃあ、おれたちより、シスターのほうがいいんだろ」
「むう」
ルーナは、口を尖らせた。
俺は、ちらりと二人を見た。
……ごめん。
ソラも、ルーナも、大事な友達だ。
でも、これは、別なんだ。
犬だから仕方ない。
そういうことに、しておいてくれ。
「きゃん」
誤魔化した。
ソラとルーナが、顔を見合わせて、ため息をついた。
*
夕方、教会の礼拝堂で、ルーナが、祈りの修行をしていた。
僧侶見習い、という肩書きらしい。ルーナは、自分から、シスターに修行を申し出たのだ。
ソラが毎日剣術の修行に勤しんでいる姿に感化されたのかもしれない。
「女神様。今日も、みんなが元気で過ごせますように」
小さな手を組んで、目を閉じる。
その膝の上に、俺は、ちょこんと座っていた。
ルーナの膝は、シスターの膝とは違う。ちっちゃくて、少し固い。
でも、温かかった。
「……ふふ」
祈りの途中で、ルーナが、小さく笑った。
「コッペの体温、あったかい。祈りが、捗る」
そう言って、俺の背中を、そっと撫でる。
俺は、目を閉じた。
この子は、優しい。
ソラのことも、俺のことも、ずっと気にかけてくれる。
これからも、ずっと、仲良くしてほしい。
……いや、もちろん、それは、あくまで友達として。
子どもたちには、絶対に、変なことはしない。
俺の下心は、大人の女性限定だ。
それだけは、譲れない一線だった。
*
季節が、何度か、めぐった。
春には、庭に花が咲いた。夏には、日差しが眩しかった。秋には、落ち葉が積もった。冬には、暖炉の火が、みんなを温めた。
ソラは、毎日、木剣を振り続けた。
最初は、剣に振り回されていた少年が、少しずつ、剣を「持つ」ようになっていった。
ルーナは、毎日、祈りの修行を続けた。
たまに隣町の教会に修行に行くこともあり、本格的に僧侶としての基礎を学んでいるようだ。
最初は、ただの真似事だった祈りが、少しずつ、本物の光を帯びるようになっていった。
俺は、毎日、シスターに抱っこされた。
それは、まったく変わらなかった。
ある日の夕暮れ、庭で、ソラが、木剣を振っていた。
一、二、三、四。
空気を切る音が、きれいに揃っている。
「よし。今日は、ここまで」
シリウスじいさんが、満足そうに頷いた。
「坊主。お前、この頃、いい顔になってきたな」
「本当ですか?」
「ああ。剣が、よく似合う」
ソラは、照れくさそうに笑った。
その背中は、いつのまにか、少しだけ、大きくなっていた。
あの日、路地裏で、パンを半分くれた小さな少年は。
今では、木剣が、よく似合う背丈になっていた。
テーブルの上から、その姿を眺めながら、俺は、静かに思った。
ソラ。
お前が、これから、どんな道を歩むとしても。
俺は、ずっと、そばにいる。
……あと、シスターにも、ずっと、抱っこしてもらう。
それだけは、絶対に、譲らない。




