4ワン
チワワと少年の運命が少しずつ動き出す
ソラの朝は、早い。
空がようやく白み始めるころ、ソラはぼろ布の中からもぞもぞと起き出す。あくびをひとつ、伸びをひとつ。それから、隣で丸まっている俺の頭を、指先でそっと撫でる。
「おはよう、コッペ」
きゃん、と返す。
それが、俺たちの一日の始まりだった。
ソラは、路地裏の水汲み場で顔を洗って、布靴の紐を結び直す。そして、大通りの裏手にある食堂へ向かう。
皿洗いと、薪割りと、ゴミ出し。店が開く前から閉まったあとまで、ひたすら働く。
賃金は、ほとんど出ない。その代わり、店の余り物をもらえる。
それが、この少年の、唯一の収入だった。
*
「おう、来たか」
食堂の裏口から顔を出したのは、腕っぷしの太い、無愛想な男だった。店主だ。
「今日は薪が山ほどある。昼までに全部割っとけ」
「はい」
「その犬は?」
「あ、その……拾いました。邪魔はさせません」
店主は、ぎろり、と俺を見下ろした。
俺は、ぴたりと姿勢を正して、おすわりした。
人間の常識を持つ元中年男性として、ここは第一印象が大事だ。
「……ふん。店の前には出すなよ」
それだけ言って、店主は厨房に戻っていった。
追い出されなかった。ほっとした。
ソラが、こそっと笑って、俺の頭を撫でた。
「大丈夫だってさ、コッペ」
*
昼間、ソラが働いている間、俺には俺の仕事があった。
母を、探すことだ。
あの古い倉庫を、見つけなければならない。屋根に穴のあいた、雨漏りのする、藁の巣のある倉庫。
犬の足と鼻を使って、街の倉庫を片っ端から回った。港の近くの倉庫。市場の裏の倉庫。使われなくなった穀物倉庫。どこも似ているようで、どこも違った。
三日目の昼、ようやく、それらしい場所を見つけた。
屋根に穴が開いて、床板が一枚外れている。雨のあとの匂いが、まだ壁に染みついていた。
巣は、あった。
藁と布切れで作られた、あの巣。
でも、空っぽだった。
母の匂いが、ほんの少しだけ、藁に残っていた。兄弟たちの匂いも、薄く。
棚の上を見上げた。あの日、母が兄弟を運んでいった、高い棚。
誰もいなかった。
俺は、しばらく、その場に座り込んでいた。
生きているのか。それとも。わからなかった。
でも、巣に血の匂いはなかった。荒らされた跡も、なかった。
誰かが、みんなを連れて、ここを離れたのだ。
きっと、そうだ。
俺は、そう信じることにした。
「……絶対、探すからな」
きゃん、と鳴いて、倉庫をあとにした。
*
母探しの合間に、俺は、ソラの手伝いもしていた。
といっても、大したことはできない。目立つのは、まずい。
世界最高峰の魔力なんてものを、街中で振り回したら、大騒ぎになる。そのくらいの分別は、四十二歳の中身が持っている。
だから、こっそりやる。
薪割りは、ソラにとって重労働だった。斧が重い。薪が硬い。振り下ろすたびに、体がふらつく。
俺は、薪の山の裏側にまわって、前足で、こっそり薪を叩いた。
ぽん、ぽん、ぽん。
ほんの少しだけ、木目に亀裂が入る。
ソラが斧を振り下ろすと、薪は、面白いように割れた。
「あれ? 今日は、割れやすいな」
ソラは、首をかしげた。
俺は、素知らぬ顔で、尻尾を振った。
野良犬が近づいてきたときは、ちょっとだけ睨む。
睨まれた野良犬は、なぜか、尻尾を巻いて逃げていく。
ソラの荷物を運ぶときは、口にくわえて、そっと持ち上げる。
ちいさな体で、大きな仕事。
最強のステータスを、こんなことに使っている自分が、少し可笑しかった。
*
ただ、ひとつだけ、困ったことがあった。
店には、店主の奥さんがいた。
三十歳くらいの、さっぱりとした顔立ちの女性で、ときどき、厨房の手伝いをしていた。優しい声で、「あら、可愛い子ね」と俺に話しかけてくれる。
優しい声で。
女性が、俺に、話しかけてくれる。
これは、いけない。
気がついたら、俺は、彼女の足元にすり寄って、尻尾をぶんぶん振っていた。
「あらあら、甘えん坊さんね」
撫でられた。
撫でられた。
俺は、幸せだった。
「こら、コッペ。仕事の邪魔しちゃダメだろ」
ソラが、慌てて俺を抱き上げた。
「すみません、おかみさん」
「いいのよ。犬はいいわねえ。なんだか、癒されるわ」
奥さんは、にこにこと笑っていた。
ソラは、俺を抱えたまま、ちょっと怒った顔をしている。
「お前、女の人だと、すぐ寄っていくよな」
……バレている。
俺は、目をそらした。
犬だから仕方ない。これは、犬の本能だ。そういうことにしておく。
*
仕事が終わるころ、店主は、いつも、ソラに包みを渡した。
「ほら、今日の分だ」
ソラは、深々と頭を下げて、受け取る。
中身は、パンだ。前の日に売れ残った、硬くなりかけのパンが、ふたつ。
路地裏の寝床に戻って、ソラは、その包みを開ける。
「今日は、二つあるな。コッペ、はんぶんこにしような」
そう言って、ソラは、パンを割ろうとする。
俺は、パンを見た。
二つとも、真っ黒に焦げていた。
……なぜだ。
前の日も、その前の日も、そうだった。ソラがもらうパンは、いつも、焦げているのだ。
店主は、なぜか、毎回、いちばん焦げたパンを選んで、ソラに渡している。
いや、違う。
運だ。
運MAX。※方向は保証しません。
俺の運の悪さが、ソラの運にまで伝染しているのか。
申し訳ない気持ちになって、耳が垂れた。
ソラは、そんな俺を見て、けらけらと笑った。
「コッペ、なんでそんな顔してるんだ?」
焦げたパンの端を、ぽきっと割って、口に入れる。
「香ばしいな。おれ、こういうの、好きだよ」
嘘だ。
絶対、嘘だ。
でも、ソラは、本当に美味しそうに食べていた。
俺も、焦げたパンにかじりついた。
苦い。かたい。粉っぽい。
でも、あたたかかった。
*
一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、季節が、ゆっくりと変わっていった。
朝の空気が、冷たくなった。
水汲み場の水が、凍りそうなほど冷えた。
ぼろ布の寝床は、風を防ぎきれなかった。
ソラは、毎晩、俺を抱きしめて眠った。
「あったかいな、コッペは」
そう言って、笑ってくれる。
でも、日に日に、ソラの咳が増えていった。
こほ、こほ、と乾いた音。
最初は、朝だけだった。
それが、昼にも出るようになり、夜には、止まらなくなった。
その夜は、特に冷え込んだ。
ソラは、薄い布にくるまって、歯をがちがちと鳴らしていた。
顔が、赤い。額に、そっと鼻を寄せた。
熱い。
「……だいじょうぶ、だよ……ちょっと、寒いだけ……」
大丈夫じゃない。
絶対に、大丈夫じゃない。
でも、俺には、何もできない。
医者を呼ぶことも、薬を買うことも。
言葉ひとつ、伝えることも。
……いや。
一つだけ、できることがある。
俺は、ソラの胸の上に、そっと乗った。
小さな体を丸めて、ソラの体に、ぴったりとくっつく。
それから、目を閉じて、魔力を、ほんの少しだけ、流した。
どうやるのかは、知らなかった。
でも、ソラを温めたい、という気持ちだけで、体が勝手に動いた。
俺の体から、ほんのりと、あたたかい光が広がっていく。
ソラの咳が、少しずつ、静かになっていった。
歯の音も、止まった。
呼吸が、ゆっくりと、深くなる。
俺は、朝まで、一睡もしなかった。
ソラの寝顔を、ずっと見ていた。
*
朝になった。
目を覚ましたソラは、きょとんとした顔で、自分の体を見下ろした。
「あれ……? 咳が、出ない」
熱も、下がっていた。
「なんでだろう。コッペが、あっためてくれたからかな」
ソラは、俺を抱き上げて、頬をすり寄せた。
「ありがとうな、コッペ」
きゃん。
俺は、とても疲れていたけれど、それでも尻尾を振った。
ソラは、いつものように、布靴の紐を結び直して、立ち上がる。
「行こうか。今日も、仕事だ」
路地の入口に向かって、二人で歩き出した。
そのとき、路地の向こうから、誰かが、こちらを見ていることに気がついた。
黒い長い服。白い頭巾。胸元には、小さな銀の飾りが揺れている。
修道女だった。
二十代の後半くらいだろうか。穏やかで、柔らかい顔立ちの女性だった。
彼女は、ゆっくりとこちらへ歩いてくると、ソラの前で、静かにしゃがんだ。
「あなた、ずっとここに、一人でいたの?」
ソラは、びっくりして、俺をぎゅっと抱きしめた。
「……おれ、悪いことは、してません」
「ええ、わかっているわ」
修道女は、優しく微笑んだ。
その瞬間、風が吹いて、彼女の匂いが、俺の鼻をくすぐった。
石鹸と、乾いた花と、焼きたてのパンの匂い。
俺の鼻が、ひくひくと動いた。
……いい匂いだ。
いや、待て。今は、それどころじゃない。
「その子は、あなたの犬?」
「……はい。おれの、友達です」
「そう」
修道女は、俺の頭に、そっと手を伸ばした。
撫でられた。
俺は、抗えなかった。
「きゃううん」
自分でも情けなくなるほど、甘えた声が出た。
修道女が、くすっと笑った。
「あなたたち、二人とも、うちへ来なさい」




