3ワン
チワワ(おじさん)と心優しい少年の出会い
足音は、小さかった。
そして、軽かった。
それでも、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
逃げなきゃ、と思った。追い払われる。また箒か、石か、蹴りか。
でも、体が動かない。
目だけを、なんとか持ち上げた。
夕暮れの光を背にして、ひとりの少年が立っていた。
痩せていた。服は、何度も繕った跡がある。袖も裾も短くて、足元は、ぼろぼろの布靴だった。
その手には、布に包まれたパンが、大事そうに握られていた。
少年は、しゃがみこんで、俺を見た。
「……お前も、お腹すいてるのか」
声が、思ったよりも柔らかかった。
返事は、できなかった。返事をしても「きゃん」にしかならないし、それより、声を出す力が、もう残っていなかった。
少年は、そっと手を伸ばしてきた。
ぶたれる、と思って、目を閉じた。
でも、その手は、俺の頭の上で、ぴたりと止まった。
「あ、ごめん。びっくりさせたか」
目を開けると、少年は、手を引っこめていた。
「噛まないなら、撫でてもいい?」
噛まない。噛むもんか。そもそも、噛む力もない。
尻尾が、ぱたり、と一度だけ、地面を叩いた。
「……いいのかな」
少年は、おそるおそる、指先だけで、俺の頭に触れた。
あたたかい。
荒れて、ごつごつした、小さな手だった。
誰かに、頭を撫でられたのは、いつぶりだろう。
母の舌のほかに、こんなふうに撫でてもらったことが、あっただろうか。
いや。
前世を含めても、たぶん、生まれて初めてだった。
*
ぐう、と音がした。
俺の腹ではない。
少年の腹だった。
少年は、ちょっと恥ずかしそうに、お腹を押さえた。
「今日はさ、店の皿洗いを手伝ったんだ。そしたら、余ったパンをくれた」
誰に話すでもなく、少年は言った。
「久しぶりの、ちゃんとしたパンなんだ。だから、楽しみにしてた」
手の中の布包みを、少年は見つめた。
それから、俺を見た。
パンを、見た。
迷っているのが、はっきりとわかった。
当たり前だ。この子だって、腹を空かせている。今日一日、働いて、やっともらえた、たった一つのパンなのだろう。
誰かにあげる余裕なんて、あるはずがない。
だから、いい。
いいんだ。俺なんかに、あげなくていい。
そう思って、目を閉じようとした。
ぱき、と小さな音がした。
目を開けた。
少年は、パンを、半分に割っていた。
大きいほうを、俺の鼻先に置いて。
自分は、小さいほうを持ったまま、にっこり笑った。
「はんぶんこ」
焼きたてじゃない。冷めかけていて、少し硬くて、端っこが焦げている。
それでも、パンの匂いがした。
小麦の、ほんのり甘い、あたたかい、人間の食べ物の匂いがした。
俺は、震える口で、それにかじりついた。
うまい。
うまい、なんてもんじゃなかった。
噛むたびに、小麦の味が広がって、喉の奥が熱くなった。飲み込むたびに、腹の底があたたかくなっていく。
ネズミは、食べられなかった。
ゴミ捨て場のパンは、鳥にとられた。
でも、これは、食べられる。
人間の食べ物だ。
人間として、扱ってもらえた気がした。
気がつくと、俺は、泣いていた。
犬でも泣けるのか、と、頭の片隅で思った。
「ゆっくり食べろよ。とられないから」
少年は、俺の頭を、もう一度、そっと撫でた。
「どこか痛いのか? ううん、違うか。お腹がすいてたんだよな」
そうだよ。
そう言いたかった。
ありがとう、と言いたかった。
「……きゃん」
やっぱり、声にはならなかった。
なのに、少年は、ふわりと笑った。
「どういたしまして」
通じているはずが、ない。
それでも、その一言だけは、確かに、俺に届いた。
*
パンを食べ終わって、俺は、ようやく体を起こした。
少年は、自分の分の半分を、もぐもぐと食べていた。
小さなパンの、さらに半分だ。あっという間になくなる。
それでも、少年は、満足そうだった。
「元気になったか?」
俺は、尻尾を振ってしまった。
犬の本能というやつは、本当に、逆らえない。
「そっか。よかった」
少年は、俺をひょいと抱き上げた。
軽い。自分の体が、こんなに軽いことに、初めて気づいた。
「お前、一人なのか」
少年が、ぽつりと言った。
「おれも、一人なんだ。だから、ちょうどいいや」
何が「ちょうどいい」のか、よくわからなかった。
でも、少年は、俺の目を、まっすぐに見て、言った。
「一人だと、寒いだろ。うちに来るか?」
うち。
少年の言う「うち」が、どんな場所なのかは、後になってわかった。
でも、その瞬間の俺には、その一言が、どんな言葉よりも、ありがたかった。
「お前、パンみたいな色だな。……コッペパン、みたいだ」
……ん?
「コッペ、って呼んでいいか?」
いや、ちょっと待て。
いくら何でも、犬らしすぎる。せめて、もう少し、かっこいい名前が……。
「きゃん!」
尻尾が、ぶんぶん揺れた。
やめろ、俺の尻尾。
「コッペ。よし、決まり。おれはソラ。よろしくな」
ソラ。
空の、ソラ。
俺は、少年の腕の中で、その名前を、心の中で繰り返した。
*
夜になった。
ソラの「うち」は、路地裏の、雨風をしのげる隙間だった。ぼろ布を何枚か重ねただけの、寝床とも呼べないような場所だった。
俺は、その中で、ソラの腕に抱かれていた。
ソラは、すぐに寝息を立て始めた。
あんなに痩せているのに。
自分だって、腹を空かせているのに。
見ず知らずの、汚れた、痩せこけた子犬に、自分のパンを半分くれた。
四十二年生きて。
誰にも、必要とされなかった俺に。
誰にも、優しくしてもらえなかった俺に。
この子は、当たり前みたいな顔をして、パンを半分、くれた。
運はMAX。方向は、保証しません。
ずっと、悪いほうにMAXなのだと思っていた。
でも。
もし、この出会いが、良いほうの方向だったのなら、一生分の運をここで使い切ってもいい。
ステータスは、全部MAXだ。
この世界で、俺は、たぶん、誰よりも強い。
でも、そんなことは、どうでもいい。
腕の中の小さな体温を、俺は、ぎゅっと感じた。
母さん。
母さんのことは、絶対に、探す。
でも、今は。
この子だけは、俺が守る。
何があっても、何をしてでも。
俺は、そう決めた。
ソラの寝息を聞きながら、俺は安心して眠りについた。




