2ワン
ステータスMAXの子犬。
それでもやっぱりお腹は減ります。
母の匂いを探して、夜が明けるまで走った。
倉庫は、どっちだったか。流されてきた道は、雨で全部、形を変えていた。側溝の出口から先は、どの路地も同じ石畳に見える。
坂を上り、角を曲がり、壊れた樽の陰をのぞく。鼻を地面にこすりつけて、ひたすら嗅ぐ。
匂いは、ない。
あるのは、濡れた石の匂いと、乾きかけた土の匂い、それから誰かが昨日捨てた魚の骨の匂い。
「……くそ」
きゃん、と鳴いた。
犬の鼻は、世界を「見て」いる。三軒先の窓の煮込み豆のスープも、壁に残る猫の足跡も、全部わかる。これだけ優秀な鼻なのに、たった一匹の匂いだけが、見つからない。
日が昇るころ、足が止まった。
そこで、腹が鳴った。
ぐううううう。
匂いというのは、良いことばかりではない。焼かれた肉の匂い。焼き立てのパンの匂い。揚げ物の匂い。それが全部、腹に直接響いてくる。
まずい。これは、まずい。
俺は、飢えていた。
*
念のため、ステータスを確認した。
視界の端に意識を向けると、半透明の板が、またふわりと浮かぶ。ほかの誰にも見えていないらしい。さっきから通りすがった人間も、犬も、猫も、これには一切反応しなかった。
体力 MAX
筋力 MAX
敏捷 MAX
魔力 MAX
知力 MAX
運 MAX ※方向は保証しません
全部MAXだ。
体力MAX。それなのに、腹が減っている。
満腹度の欄は、ない。空腹という項目も、ない。
「MAXなのに腹は減るのかよ……」
答えは「きゃん」だった。世界は、俺に優しくない。
*
「新入りか」
しゃがれた声がした。
振り向くと、樽の陰から、隻眼の老犬がこちらを見ていた。灰色の毛はところどころ抜けて、片耳が欠けている。
「……えっ」
俺は目を丸くした。
いま、この犬、喋った?
「何を驚いてる。犬同士なら、話せるのは当たり前だろうが」
そうか。母とも、そうやって話していたのだ。
俺は、ほっとした。この世界に来て、初めて他人と言葉が通じた。
「あの、すみません。昨日の雨で、母とはぐれてしまって。屋根に穴のあいた、古い倉庫にいたんです」
「倉庫なら、この街には山ほどある」
老犬は、ふん、と鼻を鳴らした。
「雨の日にはぐれた子犬は、たいてい、戻れん。……それより、お前、何日食ってない」
「昨日から……」
「昨日? 生まれて二か月もたつやつが、一日食わんだけで、ふらふらしやがって」
「あの、ステータスは全部MAXなんですけど」
「すてーたす? 旨いのか、それは」
「食べ物じゃないです」
「なら、いらん」
通じない。まったく通じない。犬同士でも、あの板の存在は、共通の認識ではないらしい。
俺は諦めて、話を戻した。
「母を、探したいんです」
「探すなら、まず腹を満たせ。死んじまったら、会えるもんも会えん」
老犬の声は、ぶっきらぼうだった。でも、言っていることは、ひどく正しかった。
「食い物が欲しけりゃ、狩れ。ネズミでも小鳥でも、そこら中にいる」
「か、狩る……」
「お前、狩りも知らんのか」
知らん。知るわけがない。
でも、体は勝手に動いた。
視界の端で、ちょろり、と何かが動いた。壁際の、小さなネズミ。
次の瞬間、俺は、そいつを咥えていた。
……速い。自分でも、何が起きたのかわからなかった。
ステータスMAXの敏捷は、伊達じゃない。ネズミの側からすれば、気づいたときには口の中だっただろう。
口の中で、ネズミがもぞもぞと動いた。
温かい。小さい。生きている。
そして、俺の頭の中で、前世の常識が全力で待ったをかけた。
――無理。
――無理無理無理無理。
――生はムリ!!
俺は四十二年、コンビニ弁当と冷凍食品で生きてきた男だ。加熱していない動物を口にする覚悟など、あるはずがない。せめて焼いてほしい。いや、焼いてもネズミはだいぶキツいが。
ぺっ、とネズミを吐き出した。
ネズミは、地面に転がったまま、しばらく俺を見上げていた。
「……?」という顔をしていた。
それから、そろそろと、逃げていった。
「……何をやっとるんだ、お前は」
老犬が、呆れた顔でこちらを見ていた。
「生は、ちょっと……」
「贅沢言うな」
「すみません……」
「若いのに、食わんでどうする。生きるってのは、そういうことだぞ」
ごもっともだ。ぐうの音も出ない。腹のほうは、ぐうの音を出しっぱなしだが。
老犬は、ため息をひとつついて、樽の陰に戻っていった。
「まあ、好きにしろ。ただし、ここじゃ寝るなよ。朝には冷たくなるぞ」
冷たくなる、か。
その言葉が、妙に胸に残った。
*
狩れないなら、拾うしかない。人間の食べ物なら、食べられる。そう考えた俺は、ゴミ捨て場を探した。
匂いで、すぐに見つかった。
最初のゴミ捨て場で、パンを見つけた。
パンだ。半分に割れた、パンだ。
俺は、震える前足で、それに近づいた。
あと三歩。二歩。一歩。
次の瞬間、空から鳥が降ってきて、パンをかっさらっていった。
「……………………」
空を見上げると、鳥は、遠くの屋根の上で、悠々とパンをつついていた。
二つ目のゴミ捨て場で、骨つきの肉を見つけた。
俺は喜んで飛びついた。
肉は、どう見ても腐っていた。
匂いでわかる。犬の鼻は優秀だ。優秀すぎて、知りたくなかったことまで教えてくれる。
三つ目のゴミ捨て場では、大きな野良犬たちが縄張りを守っていて、牙を剥かれて追い払われた。
運。
ステータスの、運。
MAX。※方向は保証しません。
方向、逆じゃないか?
*
夕方になっていた。
ふらふらしながら、大通りに出た。そこには、人がいた。人間がいた。
助けを求めよう、と思った。
中身は人間なのだ。言葉が通じれば、なんとかなるはずだ。
道端に立っていた、若い女性の足元にすり寄った。
「あの、すみません。お腹がすいていて、何か……」
「きゃんきゃん!」
「きゃっ、野良犬!」
女性は悲鳴を上げて、持っていた箒を振り上げた。
「あっち行って!」
通じない。まるで通じない。
俺の言葉は「きゃんきゃん」としか届かない。
「待って! 違う! 俺は中身は……あっ、でも、お姉さん、すごく可愛……」
「しっしっ!」
追い払われた。
可愛い女性に会えたのに。この世界で初めて出会った女性なのに。
箒で追い払われた。
神様。「女の子に普通に話しかけられる人生」は、どこへ行きましたか。
*
路地裏に戻ったときには、日が沈みかけていた。
足が、もう動かなかった。
体力はMAXのはずなのに、力が入らない。ステータスの数字と、体の実感は、別物らしい。
冷たい石畳に、頬をつけた。
遠くの景色が、ゆっくりにじんでいく。
母の腹に鼻を埋めて眠った夜は、あんなにあたたかかったのに。
今は、石の冷たさしかない。
前の世界でも、俺は、そうだったな。
どれだけ頑張っても、誰にも気づかれない。
誰にも、必要とされない。
夜中まで働いても、「お疲れ」の一言もなかった。
そうか。世界が変わっても、俺は、俺のままなのか。
最強のステータスを持っていても。
……まあ、いいか。
目を閉じかけた、そのとき。
小さな足音が、近づいてきた。




