16ワン
犬悪い事を考える。
街の門を出ると目の前にまっすぐな街道が続いていた。
朝の光が、道の両側の草をきらきらと光らせている。空気は少し冷たくて、でも澄んでいた。
「隣町まで、歩いて二日ほどですね」
エウロパが懐から、一枚の地図を取り出した。羊皮紙に、細かい字で街道と街の名前が書き込まれている。
「途中に村がひとつ。そこで一泊しましょう」
「はい!」
ソラが、元気よく、頷いた。
旅の初日。
誰もがまだ少しだけぎこちなかった。
*
街道を歩きながら、三人と一匹は、ぽつぽつと、言葉を交わした。
「エウロパさんは、いつから魔法使いに?」
ソラが、隣を歩くエウロパに尋ねた。
「物心ついたときには、もう杖を握らされていました」
エウロパは、前を向いたまま答えた。
「私の一族は魔法の家系です。幼い頃から厳しい訓練を受けてきました」
「厳しい……」
「毎日、朝から晩まで魔法陣を書かされました。休みは、月に一度」
「うわあ……」
ソラが、ぎょっとした顔をした。
「その代わり、一級魔法使いの資格を若くして取得しました」
エウロパの声にほんの少しだけ誇らしさが混じっていた。
「一級って、すごいんですか?」
「エヴィナール王国全体でも、一級魔法使いは、十名ほどしかいません」
エウロパは淡々と続けた。
「私は、ハーフエルフです。人間よりも魔力の器は大きい。それでも、一級は簡単には取れません」
「じゃあ、特級は……」
「もっと、少ないです。今、この国に二名だけ」
ソラが目を丸くした。
「すごい……!」
ソラが素直に目を輝かせた。
「おれ、そんなふうに何かを頑張ったことないです」
エウロパが、ちらりとソラを見た。
「あなたは、剣を毎日振っていたのでしょう」
「え、あ、はい」
「それも、立派な努力です」
その一言にソラの頬が、ほんのり赤くなった。
俺はその様子を足元からじっと見上げていた。
……む。
いい雰囲気だ。
いい雰囲気すぎる。
俺はさりげなく二人の間に体を割り込ませた。
「わふっ」
「コッペ?」
俺は、澄ました顔でエウロパのほうを見た。
……よし。
これで、距離が、開いた。
*
ルーナはずっと俺の隣を歩いていた。
「ねえコッペ」
小声で、話しかけてくる。
「なあにあの二人」
ルーナの視線の先には、まだ話し込んでいるソラとエウロパがいた。
「……」
俺は、答えられない。
答えられないが、思いっきり目をそらした。
「わたしの、勘だけどさ」
ルーナがにやりと笑った。
「ソラ、あの人のこと気になってるでしょ」
……鋭い。
この子、鈍そうに見えて変なところで勘がいい。
俺は精一杯無関心を装った。
「きゃん」
「あ、誤魔化した」
ルーナがくすくす笑った。
それから、少しだけ遠い目をして二人の背中を見つめた。
「まあ、いいけどね。ソラが幸せなら」
その声に、ほんの少し寂しさが混じっていた気がした。
……気のせいだろうか。
俺はちらりとルーナを見上げた。
ルーナはすぐにいつもの明るい顔に戻っていた。
「さ、休憩休憩! コッペ、お水飲む?」
水筒を、こちらに差し出してくる。
俺はそれにぺちゃぺちゃと口をつけた。
……この子も、なかなか、複雑な感情を、抱えているようだ。
人間の恋愛事情というのは、犬には少々、難解だ。いや恋愛経験ゼロのおじさんには難解だ。
*
休憩を挟んで、また、三人と一匹は歩き出した。
「そういえば」
エウロパがふと、ルーナに目を向けた。
「ルーナさんは戦えるのですか」
「恥ずかしい話ですけど、僕、子供の頃から喧嘩でルーナに勝てたことがないんですよ」
ソラがあっけらかんと答えた。
その言葉に、ルーナが噴き出した。
「いやいや、ソラが弱すぎなの」
「ルーナが強すぎなんだよ」
エウロパが苦笑しながら口を挟んだ。
「少なからず武勇伝がありそうですね」
「孤児院の子にちょっかい出した悪ガキたちはもちろんですけど。街の二、三人のゴロツキを一人でボコボコにしたことがあって」
「え……」
ソラの話にエウロパが、目を丸くした。
「シスターとシリウスさんと僕の三人がかりで、ルーナを羽交い締めにしてやっと止まった、なんてことがありました」
「……」
エウロパがじりじりとルーナから、少し距離を取った。
「あはは、懐かしい話だね」
ルーナが気にせず笑った。
「悪い子たちに女神様に代わってゲンコツしてあげただけだよ」
「……そ、そうですか」
エウロパはまだ若干引いた顔をしていた。
「あとは、たまに山まで行って猪狩りなんかもやりましたね」
ソラが続けた。
「狩りですか」
「はい。僕、弓矢が本当に下手くそで。一撃で仕留められなかったんです」
「そういう時は——」
ルーナが拳を軽く振ってみせた。
「わたしが女神様の元にお返しすることが多かったかな」
「ルーナ」
ソラが呆れたように言った。
「パンチを『女神様の元にお返しする』なんて、僧侶が言っていいの?」
「良いの」
ルーナは堂々と答えた。
「ちゃんとお祈りしてるんだから」
俺はその清々しい開き直りを足元から見上げていた。
……この子、見た目よりずっと規格外だ。
そんな感情がエウロパから伝わってきた。
エウロパはもう何も言わなかった。
ただ少し遠い目でルーナを見つめていた。
*
昼過ぎ、街道沿いの小さな村に着いた。
畑の広がるのどかな村だった。子供たちが道端で走り回っている。
「噂の勇者様の一行だ!」
誰かがそう叫ぶと、村中の人々がわらわらと集まってきた。
噂はすでにこの村にも届いていたらしい。
「勇者様、勇者様!」
「お若いのに立派だ」
「これは幸先がいいぞ」
ソラは人だかりにあたふたしていた。
「あ、あの、僕まだ何もしていなくて」
「謙虚な方だ」
「ますます、頼もしい」
村人たちは、勝手に感動していた。
俺は、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
……この調子だと、この先あちこちでこういう歓迎を受けることになるのだろう。
ソラはまだ実感がなさそうだった。
でも、周りの人々の目にはもう彼は、伝説の勇者として映り始めている。
「今夜はぜひ、村で一番いい宿をお使いください!」
村長らしき白髪の老人が深々と頭を下げた。
「宿代は村から出させていただきます」
「え、そんな! 悪いです」
「いいえ! 勇者様におもてなしひとつできないなんて村の恥です!」
ソラは困った顔でエウロパを見た。
エウロパは静かに頷いた。
「ここは、受けておきましょう。今後もこういうことは起こります。断り続けるのは、かえって失礼になることも」
「……わかりました」
ソラは村長に深く頭を下げた。
「ありがとうございます。お世話になります」
*
宿は村で一番大きな木造の建物だった。
宿の女将は恰幅のいい、明るい中年の女性だった。
「まあまあ、勇者様! それに可愛いワンちゃんも!」
俺の尻尾が勝手に揺れた。
いい人だ。絶対に、いい人だ。
「今夜はご馳走、用意させてもらうからね!」
女将は俺の頭をわしわしと撫でてくれた。
「コッペ、今日はまだ大人しいな」
ソラがこそっと耳打ちしてきた。
俺は素知らぬ顔で、女将の手に頬をすり寄せた。
*
夕食の席には、村中の人々が集まっていた。
長いテーブルに山盛りの料理が並び、村の広場では即席の宴会が始まっていた。
「勇者様、こちらへ!」
「一杯どうぞ!」
ソラはあちこちから、声をかけられて目を回していた。
俺はテーブルの下でこっそり料理を味見させてもらっていた。
串焼き肉。うまい。
パン。うまい。
スープ。うまい。
この世界に来てこんなに豪華な食事は初めてだった。
「コッペくん、あなたも、どうぞ」
村の女性が俺のために、小さな皿を用意してくれた。
ミルクに浸したパンだった。
あたたかくて、優しい味だった。
……この村、いいところだ。
*
宴もたけなわの頃、村長がソラの前に腰を下ろした。
「勇者様。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「これから、どちらへ、向かわれるのですか」
「まず、ハキュネの教会へ向かいます」
エウロパが、静かに補足した。
「その後、王都へ上がり国王陛下に謁見を願い出る予定です」
「王都……」
村長の顔に驚きと期待が浮かんだ。
「では、すぐに魔王軍と向き合うわけではないのですね」
「はい。今すぐ西のイドゥー高原へ向かうのは、あまりに無謀ですから」
エウロパは、淡々と、言った。
「まずは、国のバックアップを取り付けること。それが、領主閣下の命でもあり、ギルドマスターのお考えでもあります」
村長は少し安堵したような息を吐いた。
「この村も昔はもっと大きな村でした」
村長の目が、遠くを、見つめた。
「戦争で多くの若者が出ていって帰ってこなかった。今は老人と子供ばかりです」
ソラの表情が真剣になった。
「勇者様には期待しています。でも」
村長は、ソラの手をそっと握った。
「無理はなさらないでください。私たちは勇者様に命を落としてほしいわけでは、ないのです」
ソラはその手をじっと見つめた。
「……はい。必ず生きて帰ります」
その声にはシリウスに約束した、あの重みが乗っていた。
村長は深く頷いた。
俺はソラの足元で、その会話をじっと聞いていた。
この街道の先には、まだたくさんのこういう場所があるのだろう。
戦争が何百年も続いているということは、それだけ多くのこういう痛みが積み重なっているということだ。
俺はソラの膝にそっと顎を乗せた。
ソラは無意識に俺の頭を撫でた。
その手は少しだけ震えていた。
*
夜、宿の一室でソラたちは、それぞれの寝台に横になっていた。
部屋はひとつしか取れなかった。
男女で分けるべきか、宿の女将も少し悩んだ様子だったが、結局、三人と一匹でひとつの広い部屋にまとまることになった。
ルーナはもうすやすやと寝息を立てている。
エウロパは、窓辺でまだ何か地図を確認していた。
「エウロパさん、まだ起きてるんですか」
「明日の道筋を確認していただけです。もう、休んでください」
「はい……おやすみなさい」
ソラは目を閉じた。
俺はソラの隣で、丸くなった。
今日一日でいろんなことがあった。
村人たちの歓迎。村長の切実な言葉。
この旅が、ただの冒険じゃないことを改めて感じさせられた一日だった。
窓の外では月が静かに街道を照らしていた。
……よし、寝るか。
そう思って目を閉じかけた、そのときだった。
ふと部屋の中を見回した。右の寝台にルーナ。左の寝台にエウロパ。真ん中に、ソラと俺。
……あれ。
待て。
これチャンスなのでは? いや、違う。何を言っているんだ、おれは。
そういうことではない。
でも。
でも、これは。
添い寝し放題なのでは!?
俺は目をかっと見開いた。
いや、待て。落ち着け。ソラの隣は俺の指定席だ。そこは譲れない。
でも少し、こう寝返りを打つふりをしてするりとエウロパの寝台のほうへ寄っていくことは可能なのでは?
いやしかし、それをすればソラが起きるかもしれない。
それより、寝ている隙にそっと。……待て待て。寝ている相手に無断で近づくのはさすがに、男として、いや犬としても良くないのでは。
……いや、犬なんだ。犬なんだから良いのでは。
いや、良くない。
俺は布団の中で、悶々と転がり続けた。
右に転がる。左に転がる。
エウロパの寝息が聞こえる。ルーナの寝返りの衣擦れの音も聞こえる。
……眠れない。
窓の外の月がだんだん低くなっていく。
鶏が鳴くころには、俺は一睡もできないまま、赤い目で天井を見つめていた。
「コッペ、目真っ赤だぞ」
翌朝、ソラが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? 具合、悪いのか?」
悪くない。
悪いのは、俺の煩悩のほうだ。
俺は力なく尻尾を一度だけ振った。
「きゃん……」




