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13/22

13ワン

おじさんの理性VS犬の本能

 重い扉の向こうから、ひとりの女性が姿を現した。

 広間がしん、と静まり返った。

 

 背は高くすらりとしていた。白金色の長い髪が歩くたびにさらさらと揺れている。髪に沿うように、繊細な鎖の装飾がつけられていてちらちらと光っていた。


 耳の先がほんの少しだけ尖っている。

 纏っているのは赤紫を基調にした、仕立てのよい制服だった。領主お抱えの魔導士部隊のものらしく、上品でありながら機能的な作りになっている。胸元には部隊の紋章が、控えめに刺繍されていた。


 顔立ちは涼しかった。切れ長の目に淡い金色の瞳。感情の起伏をあまり表に出さない静かな表情。

 彼女は、絨毯の上を音もなく歩いてきた。

 貴族たちがひそひそと囁いていた。


「あれがエウロパ殿か」

「ハーフエルフの天才魔法使い」

「国内でも数少ない一級魔法使い」


 ……エウロパ。

 俺はその名前を心の中で繰り返した。

 いい名前だ。

 いい匂いもする。

 白金の髪から漂う冷たく澄んだ魔力の匂いと、その奥にほんのり乾いた薬草のような穏やかな香り。


 ……これは、まずい。

 何かとてもまずいものが、俺の中で目を覚ましかけている。

 落ち着け。

 落ち着け、俺。

 今日は頑張ると決めたじゃないか。


          *


 エウロパは領主の前で静かに片膝をついた。


「エウロパ、参りました」

 声は低く落ち着いていた。

「よく来た」

 領主が、満足そうに頷いた。

「こちらが勇者ソラ殿だ。今日から君には、の旅に同行してもらう」

「承知いたしました」


 エウロパはあっさり頷いた。

 命令だから従う。そんな淡々とした反応だった。

「勇者殿の補佐を任務とします。魔法による支援と状況の分析。必要に応じて領主閣下へ報告を」


 ……報告。

 俺の耳がぴくりと動いた。

 やはりこの人は、領主の目付でもあるのだ。

 ただエウロパの感情は、それほど領主に染まっているようには見えなかった。

 忠誠、というより義務感。

 それからもう少し、奥のほうに静かな好奇心。勇者という存在に興味を持っている。

 そんな色があった。


「ソラ殿」

 領主に促されてエウロパがソラのほうへ体を向けた。

「エウロパと申します。これからよろしくお願いします」

 差し出された手は白く、細く、きれいだった。

「あ、は、はい! ソラ、です! こちらこそ、よろしくお願いします!」

 ソラは慌てて立ち上がろうとしたその時、ぶかぶかの礼服の裾を踏んだ。

「あっ」

 ソラの体がぐらりと前に傾いた。

 倒れる。と思った瞬間。

 ふわりと、ソラの体が宙に浮いた。

 エウロパの指先がかすかに動いていた。

 詠唱は聞こえなかった。

 ただ淡い銀色の光がソラの周りに、一瞬だけまとわりついて消えた。

 ソラはゆっくりと床に降ろされた。

「…………」

 広間がぽかんとしていた。

 ソラは真っ赤な顔で頭をぺこぺこ下げた。

「す、すみません! ありがとうございます! 服が、ぶかぶかで、その、慣れてなくて!」

「いえ」


 エウロパは無表情のまま答えた。

「お気になさらず」

 ソラはまだぺこぺこしていた。

「ほんとに、すみません。いきなり迷惑をかけちゃって」

 その姿をエウロパはじっと見つめていた。

 表情は変わらなかった。

 でも、俺にはわかった。

 エウロパの感情が、ほんの少しだけ揺れたことが。

 ……なんだ、この人。

 素直で。

 不器用で。

 嘘のない、この少年は。

 初めて見る種類の生き物だ、とでも言うような戸惑い。

 それから、その戸惑いの奥に小さな、小さな、あたたかい何かが、灯った。

 

 ……あ。

 これは。

 俺はぴくりと耳を立てた。

 恋の芽だ。


 そう思った、その瞬間だった。

 エウロパの視線が、ふと、足元に降りてきた。

 目が合った。

 淡い金色の瞳が、俺を静かに見下ろしていた。

「……犬、ですか」

 その声は低くて涼しくて。

 どこか、遠い星の夜空のようで。

 

 ……。

 …………。

 もう、だめだった。

 理性は三秒しかもたなかった。

 気がつくと、俺は走り出していた。

「きゃんきゃんきゃんきゃんっ!」

「コッペ!?」

 ソラの悲鳴が後ろから聞こえた。

 止まらない。止まれない。

 赤い絨毯の上を全速力で駆け抜けた。


 エウロパの足元。その膝の上。ぴょんと、跳んだ。

 エウロパの胸元に、飛びついた。

「……っ!?」

 エウロパの目がはじめて見開かれた。

 俺は彼女の顔に思いっきり顔を寄せた。

 舐めた。

 ぺろぺろぺろぺろぺろ。

 頬を。

 顎を。

 鼻の頭を。

 額を。

 全力で、舐め回した。

 柔らかい。

 いい匂いだ。

 冷たく澄んだあの香りが鼻いっぱいに広がる。

 ああ、ここは天国だ。

 いや天国は、もうシスターの腕の中で見つけたはずなのに。

 ここはまた別の天国だ。

「な、なにを……」

 エウロパのうわずった声が耳元で聞こえた。

「こ、この犬、ちょっと、やめ……」

 やめない。

 やめられない。

 俺はひたすら舐め続けた。


 広間が凍りついていた。

 貴族たちが口を半開きにしたまま固まっていた。

 領主ですら、目を見開いてぴくりとも動かなかった。

 バルドは額に手を当てて天を仰いでいた。

 ソラは真っ青な顔でこちらに走ってきた。

 

「こ、コッペ! ダメだって! 何やってるんだよ!」

 ソラが俺の体をぐいと引き剥がした。

 エウロパは抱えられていた俺が離れてもしばらく、その場に固まっていた。

 顔が唾液まみれだった。


 髪も少し乱れている。

「すみません、すみません! 本当に、すみません!」

 ソラは、九十度以上の勢いで、頭を下げた。

「うちの犬が、とんだ失礼を! あとでちゃんと叱っておきますから!」

「……いえ」

 エウロパは、ゆっくりと、袖で顔を拭った。

 その表情は無だった。

 完全な無。

 怒りも、嫌悪も、驚きすらもない。

 ただ、何が起こったのか、処理が追いついていないという顔だった。


 それから。

 エウロパはゆっくりと視線を上げた。

 その目がじっと、俺を見つめた。

 さっきまでの涼しい目とは違っていた。

 何かを探るような鋭い目。

 ……あ。

 まずい。

 舐めた瞬間に無意識に魔力が漏れていた。バフがかかってしまったのだ。

 エウロパは自分の手のひらを、じっと見つめていた。

 魔力の巡りが一瞬、整ったことに気づいたのだろう。

 そして、その原因が俺であることにも。

 感情を読む。

 驚き。疑念。

 それから、それらを圧倒するくらいの強い、強い、好奇心。


 ……ばっちり、気づかれている。

 なのにエウロパは何も言わなかった。

 広間の貴族たちが、ざわざわとこちらを窺っている。

 彼女はその視線を一瞥してから、俺から目を離した。

 乱れた髪を指で整えた。

 それから静かに口を開いた。

「……失礼しました。取り乱しました」

「え?」


 ソラが、きょとんとした。

「私も公衆の面前で恥をかくと、体内の魔力がおかしくなるのかもしれません。少々、驚いたもので」

 エウロパは、真顔でそう言った。

 

 ……。

 ……いや、何、その言い訳。

 ソラは素直に頷いた。

「そ、そうなんですか。ごめんなさい、おれの犬のせいで」

「いえ。お気になさらず」

 ……庇ってくれた?

 俺はソラの腕の中でエウロパを見上げた。

 エウロパは俺のほうを一度だけちらりと見た。

 その目は何も語らなかった。

 でも、こう言っている気がした。

 『あなたのことは、あとで、ゆっくり』

 ……こわい。

 でも、ちょっと、その怪しむような冷たい目、嫌いじゃない。


          *


「ふ、ははは」

 領主が高らかに笑い声を上げた。

「面白い。実に、面白い犬だ。勇者殿の従者にふさわしい」

 張りつめていた空気がふっと緩んだ。

 貴族たちも、つられるように苦笑を浮かべている。

「エウロパ。ずいぶんと災難だったな」

「お気遣い、痛み入ります」

「だが、これも縁だ。勇者殿とその犬とうまくやってくれたまえ」

 領主は楽しそうに頷いた。


 その目の奥にまた、何かを測るような光があった。

 俺は領主を睨んだ。

 ……こいつ。

 この事態すら面白がっている。

 

 エウロパがソラと俺を近くで見る。

 どうせその報告も受けるつもりなのだ。

 ソラはそんなことには気づいていないようだった。

 エウロパに向かって、また、ぺこりと頭を下げた。

「あの、エウロパさん。ご迷惑をかけてごめんなさい。これから、よろしくお願いします」

「はい」

 エウロパは短く答えた。

 その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。


          *


 謁見が終わって城を出るころには、空が茜色に染まっていた。

 エウロパは旅支度のために、一度部隊の宿舎へ戻るという。

「明日の朝、ギルドで改めて合流しましょう」

「はい! お待ちしてます!」

 ソラが元気よく答えた。

 エウロパはこくりと頷いて去っていった。


 その背中をソラがじっと見送っていた。

「……きれいな人、だったな」

 ぽつり、と呟いた。

 その声が少し上ずっていた。

 ……む?

 俺はソラの顔を見上げた。

 ソラの頬がほんのり赤くなっていた。

 

 ……いや、待て。

 待て待て待て。

 ソラ、お前まさか。ソラもエウロパを。

 いや、これは恋というより、憧れに近いものかもしれない。

 でも、あのエウロパのほうは間違いなく。

 ……このまま、二人がくっついたら。

 俺の頭に稲妻が走った。

 ソラがエウロパとくっついたら。

 エウロパはソラのものになる。


 俺があの白金の髪のいい匂いのする人に近づくことは……。

 親友の恋人にあんな真似できない。

 ……。

 それは困る。非常に困る。

 いや、もちろんソラの幸せは大事だ。

 ソラが幸せになるのは嬉しい。

 でもそれとこれとは別の問題だ。


 俺の顔から、すっと表情が消えた。

 決意した。

 二人が、二人きりになる状況は絶対に作らせない。

 そのためなら、俺はどんな手だって使う。

 ソラの足元で俺はふふふ、と静かに笑った。

「コッペ? なんか、悪い顔してるぞ」


 ソラが、首をかしげた。

 俺はいつもの顔できゃん、と鳴いた。

 何のことですか?

 ただの、かわいい犬ですけど。

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