13ワン
おじさんの理性VS犬の本能
重い扉の向こうから、ひとりの女性が姿を現した。
広間がしん、と静まり返った。
背は高くすらりとしていた。白金色の長い髪が歩くたびにさらさらと揺れている。髪に沿うように、繊細な鎖の装飾がつけられていてちらちらと光っていた。
耳の先がほんの少しだけ尖っている。
纏っているのは赤紫を基調にした、仕立てのよい制服だった。領主お抱えの魔導士部隊のものらしく、上品でありながら機能的な作りになっている。胸元には部隊の紋章が、控えめに刺繍されていた。
顔立ちは涼しかった。切れ長の目に淡い金色の瞳。感情の起伏をあまり表に出さない静かな表情。
彼女は、絨毯の上を音もなく歩いてきた。
貴族たちがひそひそと囁いていた。
「あれがエウロパ殿か」
「ハーフエルフの天才魔法使い」
「国内でも数少ない一級魔法使い」
……エウロパ。
俺はその名前を心の中で繰り返した。
いい名前だ。
いい匂いもする。
白金の髪から漂う冷たく澄んだ魔力の匂いと、その奥にほんのり乾いた薬草のような穏やかな香り。
……これは、まずい。
何かとてもまずいものが、俺の中で目を覚ましかけている。
落ち着け。
落ち着け、俺。
今日は頑張ると決めたじゃないか。
*
エウロパは領主の前で静かに片膝をついた。
「エウロパ、参りました」
声は低く落ち着いていた。
「よく来た」
領主が、満足そうに頷いた。
「こちらが勇者ソラ殿だ。今日から君には、の旅に同行してもらう」
「承知いたしました」
エウロパはあっさり頷いた。
命令だから従う。そんな淡々とした反応だった。
「勇者殿の補佐を任務とします。魔法による支援と状況の分析。必要に応じて領主閣下へ報告を」
……報告。
俺の耳がぴくりと動いた。
やはりこの人は、領主の目付でもあるのだ。
ただエウロパの感情は、それほど領主に染まっているようには見えなかった。
忠誠、というより義務感。
それからもう少し、奥のほうに静かな好奇心。勇者という存在に興味を持っている。
そんな色があった。
「ソラ殿」
領主に促されてエウロパがソラのほうへ体を向けた。
「エウロパと申します。これからよろしくお願いします」
差し出された手は白く、細く、きれいだった。
「あ、は、はい! ソラ、です! こちらこそ、よろしくお願いします!」
ソラは慌てて立ち上がろうとしたその時、ぶかぶかの礼服の裾を踏んだ。
「あっ」
ソラの体がぐらりと前に傾いた。
倒れる。と思った瞬間。
ふわりと、ソラの体が宙に浮いた。
エウロパの指先がかすかに動いていた。
詠唱は聞こえなかった。
ただ淡い銀色の光がソラの周りに、一瞬だけまとわりついて消えた。
ソラはゆっくりと床に降ろされた。
「…………」
広間がぽかんとしていた。
ソラは真っ赤な顔で頭をぺこぺこ下げた。
「す、すみません! ありがとうございます! 服が、ぶかぶかで、その、慣れてなくて!」
「いえ」
エウロパは無表情のまま答えた。
「お気になさらず」
ソラはまだぺこぺこしていた。
「ほんとに、すみません。いきなり迷惑をかけちゃって」
その姿をエウロパはじっと見つめていた。
表情は変わらなかった。
でも、俺にはわかった。
エウロパの感情が、ほんの少しだけ揺れたことが。
……なんだ、この人。
素直で。
不器用で。
嘘のない、この少年は。
初めて見る種類の生き物だ、とでも言うような戸惑い。
それから、その戸惑いの奥に小さな、小さな、あたたかい何かが、灯った。
……あ。
これは。
俺はぴくりと耳を立てた。
恋の芽だ。
そう思った、その瞬間だった。
エウロパの視線が、ふと、足元に降りてきた。
目が合った。
淡い金色の瞳が、俺を静かに見下ろしていた。
「……犬、ですか」
その声は低くて涼しくて。
どこか、遠い星の夜空のようで。
……。
…………。
もう、だめだった。
理性は三秒しかもたなかった。
気がつくと、俺は走り出していた。
「きゃんきゃんきゃんきゃんっ!」
「コッペ!?」
ソラの悲鳴が後ろから聞こえた。
止まらない。止まれない。
赤い絨毯の上を全速力で駆け抜けた。
エウロパの足元。その膝の上。ぴょんと、跳んだ。
エウロパの胸元に、飛びついた。
「……っ!?」
エウロパの目がはじめて見開かれた。
俺は彼女の顔に思いっきり顔を寄せた。
舐めた。
ぺろぺろぺろぺろぺろ。
頬を。
顎を。
鼻の頭を。
額を。
全力で、舐め回した。
柔らかい。
いい匂いだ。
冷たく澄んだあの香りが鼻いっぱいに広がる。
ああ、ここは天国だ。
いや天国は、もうシスターの腕の中で見つけたはずなのに。
ここはまた別の天国だ。
「な、なにを……」
エウロパのうわずった声が耳元で聞こえた。
「こ、この犬、ちょっと、やめ……」
やめない。
やめられない。
俺はひたすら舐め続けた。
広間が凍りついていた。
貴族たちが口を半開きにしたまま固まっていた。
領主ですら、目を見開いてぴくりとも動かなかった。
バルドは額に手を当てて天を仰いでいた。
ソラは真っ青な顔でこちらに走ってきた。
「こ、コッペ! ダメだって! 何やってるんだよ!」
ソラが俺の体をぐいと引き剥がした。
エウロパは抱えられていた俺が離れてもしばらく、その場に固まっていた。
顔が唾液まみれだった。
髪も少し乱れている。
「すみません、すみません! 本当に、すみません!」
ソラは、九十度以上の勢いで、頭を下げた。
「うちの犬が、とんだ失礼を! あとでちゃんと叱っておきますから!」
「……いえ」
エウロパは、ゆっくりと、袖で顔を拭った。
その表情は無だった。
完全な無。
怒りも、嫌悪も、驚きすらもない。
ただ、何が起こったのか、処理が追いついていないという顔だった。
それから。
エウロパはゆっくりと視線を上げた。
その目がじっと、俺を見つめた。
さっきまでの涼しい目とは違っていた。
何かを探るような鋭い目。
……あ。
まずい。
舐めた瞬間に無意識に魔力が漏れていた。バフがかかってしまったのだ。
エウロパは自分の手のひらを、じっと見つめていた。
魔力の巡りが一瞬、整ったことに気づいたのだろう。
そして、その原因が俺であることにも。
感情を読む。
驚き。疑念。
それから、それらを圧倒するくらいの強い、強い、好奇心。
……ばっちり、気づかれている。
なのにエウロパは何も言わなかった。
広間の貴族たちが、ざわざわとこちらを窺っている。
彼女はその視線を一瞥してから、俺から目を離した。
乱れた髪を指で整えた。
それから静かに口を開いた。
「……失礼しました。取り乱しました」
「え?」
ソラが、きょとんとした。
「私も公衆の面前で恥をかくと、体内の魔力がおかしくなるのかもしれません。少々、驚いたもので」
エウロパは、真顔でそう言った。
……。
……いや、何、その言い訳。
ソラは素直に頷いた。
「そ、そうなんですか。ごめんなさい、おれの犬のせいで」
「いえ。お気になさらず」
……庇ってくれた?
俺はソラの腕の中でエウロパを見上げた。
エウロパは俺のほうを一度だけちらりと見た。
その目は何も語らなかった。
でも、こう言っている気がした。
『あなたのことは、あとで、ゆっくり』
……こわい。
でも、ちょっと、その怪しむような冷たい目、嫌いじゃない。
*
「ふ、ははは」
領主が高らかに笑い声を上げた。
「面白い。実に、面白い犬だ。勇者殿の従者にふさわしい」
張りつめていた空気がふっと緩んだ。
貴族たちも、つられるように苦笑を浮かべている。
「エウロパ。ずいぶんと災難だったな」
「お気遣い、痛み入ります」
「だが、これも縁だ。勇者殿とその犬とうまくやってくれたまえ」
領主は楽しそうに頷いた。
その目の奥にまた、何かを測るような光があった。
俺は領主を睨んだ。
……こいつ。
この事態すら面白がっている。
エウロパがソラと俺を近くで見る。
どうせその報告も受けるつもりなのだ。
ソラはそんなことには気づいていないようだった。
エウロパに向かって、また、ぺこりと頭を下げた。
「あの、エウロパさん。ご迷惑をかけてごめんなさい。これから、よろしくお願いします」
「はい」
エウロパは短く答えた。
その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
*
謁見が終わって城を出るころには、空が茜色に染まっていた。
エウロパは旅支度のために、一度部隊の宿舎へ戻るという。
「明日の朝、ギルドで改めて合流しましょう」
「はい! お待ちしてます!」
ソラが元気よく答えた。
エウロパはこくりと頷いて去っていった。
その背中をソラがじっと見送っていた。
「……きれいな人、だったな」
ぽつり、と呟いた。
その声が少し上ずっていた。
……む?
俺はソラの顔を見上げた。
ソラの頬がほんのり赤くなっていた。
……いや、待て。
待て待て待て。
ソラ、お前まさか。ソラもエウロパを。
いや、これは恋というより、憧れに近いものかもしれない。
でも、あのエウロパのほうは間違いなく。
……このまま、二人がくっついたら。
俺の頭に稲妻が走った。
ソラがエウロパとくっついたら。
エウロパはソラのものになる。
俺があの白金の髪のいい匂いのする人に近づくことは……。
親友の恋人にあんな真似できない。
……。
それは困る。非常に困る。
いや、もちろんソラの幸せは大事だ。
ソラが幸せになるのは嬉しい。
でもそれとこれとは別の問題だ。
俺の顔から、すっと表情が消えた。
決意した。
二人が、二人きりになる状況は絶対に作らせない。
そのためなら、俺はどんな手だって使う。
ソラの足元で俺はふふふ、と静かに笑った。
「コッペ? なんか、悪い顔してるぞ」
ソラが、首をかしげた。
俺はいつもの顔できゃん、と鳴いた。
何のことですか?
ただの、かわいい犬ですけど。




